神尾和寿「三銃士」、大橋政人「吹き溜まり」ほか | 詩はどこにあるか

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神尾和寿「三銃士」、大橋政人「吹き溜まり」ほか(「ガーネット」80、2016年11月発行)

 神尾和寿「三銃士」は10の詩群から構成されている。というのは私の読み違いかもしれないが。⑤がおもしろい。

新婚時代は

急激に運動不足になったように感じたため
夕暮れになったらキャッチボールをしようではないかと提案した

野球のことなんか全然知らないままに いいよと答えた妻
のことなんか全然
知りたくない
ままに

とっては投げ
とっては
投げの
おおらかで 泣きたくなるような時代であった

 特に「感想」を書きつらねることもないのだが。
 最後の「泣きたくなるような」というのは「笑いたくなるような」とどう違うかなあ、とふと考えた。
 私は笑いだしてしまったから。
 神尾は「泣きたくなる」のだが、私は「笑いたくなる」。「他人」というか、「人間」というのは、これくらい違う。神尾が「泣きたくなる」と書いても、私は「同情」しない。「わがまま」なのである。「あまのじゃく」なのである。
 だから、もし最終行が

おおらかで 笑いたくなるような時代であった

 であったなら、私は逆に「泣きだしてしまう」かもしれない。
 ちぐはぐで、行き違いがある。生きているというのは、そういうことかもしれない。そして、この「行き違い」こそが「共感」という「錯覚」かもしれない。
 私は「誤読」とひとくくりにしてしまうけれど。



 大橋政人「吹き溜まり」。

空っ風で
空の雲が
吹っとんだ

庭の落ち葉も
吹っとんだ

小さな庭が
少し
広くなった

落ち葉は
ブロック塀の隅や
犬走りの下あたりで
吹き溜まっている

枯れた身を寄せ合って
吹き溜まっていられる奴はいい

 ここまで読み進むと、何となく「枯れ葉」に「身」を重ねてしまう。「身」は大橋でもあるし、私でもある。大橋は、枯れ葉になって、庭に散った。「比喩」だけどね。しかし「安住の地」ではない。風が吹いて、吹き飛ばされて「あっ、庭が広くなった」なんて喜ばれるだけの枯れ葉。そういう「身」が「身を寄せ合っている」。ちょっとした「悲哀」。
 「吹き溜まっていられる奴はいい」は「波瀾」を含んだことばだけれど、うーん、吹き溜まりからはぐれた「一枚の枯れ葉」が大橋なのかなあ、などとかってに「悲劇」を想像する。
 私が、いわば「枯れ葉(落ち葉)」の年齢だから、そう読んでしまうのだろう。
 ところが、詩はここから急展開する。
 思わず、「えっ」と声をあげてしまう。

空は
いつだって
必要以上に広すぎる

囲いがないので
雲の
吹き溜まる場所がない

 うーん。確かに一連目は「空の雲」の描写からはじまるから、この最後の連は詩を閉じるにはふさわしいのかもしれないが、まさか「空/雲」にもどってくるとは思わなかった。一連目は「落ち葉」と「吹っとんだ」を導き出すための「序」だとばかり思っていたので、びっくりしたのである。
 で。
 私は、ここで神尾の詩を読んだときと同じように笑いだした。
 大橋のことばを笑ったのではなく、私自身を笑った。私の「思い込み」を笑ってしまった。
 こういうときも、「詩」を感じるなあ。
 「詩」は「思い込み」を裏切る、「思い込み」を破ってしまう、壊してしまう「ことばの動き」なのだろう。
 神尾の「泣きたくなる」が「なつかしくなる」だったら、きっと「ありきたり」と感じただろうなあ。
 神尾、大橋の「思い込み」の「破壊」の仕方は、しかし「破壊」というおおげさなことばはにつかわしくない。くすぐってみる、という感じかも。
 こういう詩を「ライトバース」と呼ぶ。(ほんとうかな?)



 「ガーネット」には8人の詩人が作品を書いているのだが、嵯峨恵子とやまもとあつこが「認知症」の親のことを書いている。そうか、そういう年代になったのか、と思った。
 高木敏次は、少し若い人かもしれない。詩とは全然関係のないことなのだが、ふと思った。その高木の「再現」。

地図の裏に空があれば
傘は持たない

 この書き出しはとても魅力的だ。けれど「空」が大橋の詩と重なり、「傘」が高階杞一の「雨、みっつよつ」と重なる。

雨が
恋人になった
その日から傘がさせなくなった

 たまたまそうなったのかもしれないが、不思議な「通い合い」が気になって、「感想」を切り離して書くのがむずかしい。
 一人の詩集なら「重なり」から「個性」のようなものを感じ取るのだけれど、複数の人のなかでことばが重なると、私は、書き手をつかみきれない感じになる。「同人誌」を読むのはむずかしい。

アオキ―神尾和寿詩集
神尾和寿
編集工房ノア