殿岡秀秋『胎内電車』を読む。「秋の日のぬくもり」はとても美しい。感想を書けるかどうかわからない。書く必要がないかもしれない。引用する。
あるけるけれど
おぶってちょうだいと
おかあさんに
おねがいしたの
いいわよといって
おかあさんは
おぶい紐をだして
せおってくれた
秋の日よりも
あたたかい
おおきなせなかに
ほおをつけた
これでおぶってもらうのを
おわりにしよう
おねがいをきいてくれて
ありがとう
つらいときがあると
おもいだす
おかあさん
あの秋の日のぬくもり
四連目が美しい。ほんとうはもっとおぶっていてもらいたい。でも、それではおかあさんに負担をかける。重いだろうなあ。おかあさんを気づかっている。甘えたいけれど、もう甘えてはだめ。こころのなかで決める。そして、これもまた「声」には出さずに、こころのなかで「ありがとう」と言っている。
五連目の「おかあさん」は「おかあさんを/おもいだす」という意味なのだけれど、なんだか、「おかあさん」と呼びかけている「声」そのものに聞こえる。
「おぶい紐」は「六歳のこころ」という作品にも出てくる。
おぶい紐で背中にしょわれた
赤ん坊のころまで
時計の針をもどす
「秋の日のぬくもり」は、六歳のころの殿岡なのかなあ。ふつう、六歳の子供を背負うために「おんぶ紐(おぶい紐)」を持ち歩く母親はいないと思うが、殿岡は甘えん坊で、いつもおぶってもらっていたのかもしれない。甘えん坊であることを母は許していた。甘えさせることが、自分にできる最後のこと、と思っていたのかもしれない。殿岡は、そんな母の気持ちがわかったのかもしれない。ふと、自分がしなければならないことに気がついたのかもしれない。六歳なりに。
というようなことは、はっきりと書いてあるわけではない。私がかってに想像したこと。「誤読/捏造」したこと。
「ありがとう」ということばは、なかなか言えない。あのとき言えなかった「ありがとう」が、それ以外には言えない「響き」で書かれている。
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