『半裸の幼児』の「島」という作品。短い行分けの部分と散文形式の部分が交錯しながら動いていく。短い部分だけを引用する。
海。
隔てるものと
繋ぐもの--。
海。
寡黙にして
饒舌なるもの--。
海。
誕生と死とを
包含するもの--。
海。
動きつつ
静まるもの--。
海。
隔てるものと
繋ぐもの--。
最初の三行が言いなおされ、最後に最初にもどる。
「隔てる」「繋ぐ」という対立する動詞が、「寡黙/饒舌」「誕生/死」「動く/静まる」と変化する。
「隔てる=寡黙/誕生/動く」か。「繋ぐ=饒舌/死/静まる」か。私の印象では「隔てる=寡黙/死/静まる」「繋ぐ=饒舌/誕生/動く」。
「言い換え」ではなく、対立するうごきがあるということが描かれているのだろう。
「隔てる」は「寡黙」によって生まれることもあれば「饒舌」によって生まれることがある。「饒舌」をうるさく感じ、聞こえるけれど「聞かない」という反応が「隔てる」になる。「誕生」は「いのち」の新しい「繋がり」と定義できるが、同時に「肉体」の「分離(隔てる)」でもある。母の肉体から分離することで子は「誕生」する。「静まる」は「隔てられて」静かになることもあれば、「繋がれる」ことで静かになることもある。
特定はできない。そのときそのときで、「同じことば」が「違うこと」を指すことがある。特定せずに「動いてる」ものとしてとらえることが大事なのだろう。
海。
誕生と死とを
包含するもの--。
この三行は、「誕生」と「死」を別の行には分けずに書いている。そして「包含する」という別の「動詞」で「ひとつ」に統一している。世界は「誕生/死」という反対のものを「包含」している。「包含」のなかから、あるときは「誕生」ということばで何かがあらわれ、別の瞬間には「死」ということばで何かがあらわれる。それは別のことばで語られるけれど、最初は「ひとつ」の状態だった。
「誕生/死」という対立することばではなく「包含する」ということばの方が重要である。
海。
動きつつ
静まるもの--。
この言い直しの部分では「動き/静まる」ではなく、「つつ」ということばの方が重要なのだと思う。「動く/静まる」が同時に存在している。「動く/静まる」が「包含されている」。
触れる順序が逆になるが、
海。
寡黙にして
饒舌なるもの--。
この三行でも「寡黙/饒舌」よりも「にして/なる」ということばに注目しなければならないのだろう。寡黙であり「つつ」饒舌である。
ただし、高柳は「ある」という動詞ではなく「する」「なる」という動詞を基本にしている。(「して」の「し」は「する」から派生している。)
「世界(宇宙)」は「ある」のではなく「する」「なる」。宇宙に「する」、宇宙に「なる」。
「ことば」が高柳が向き合っているものを「宇宙にする」。「ことば」によって高柳が向き合っているものが「宇宙になる」。
こう考えればいいのかもしれない。
「海」は「ことば(書き方)」によって「隔てるもの」に「なる」こともあれば、「繋ぐもの」に「なる」こともある。高柳が「隔てるもの/つなぐもの」に「する」。
詩は、そこに「ある」のではない。ことばによって詩に「なる」。ことばによって詩に「する」ひとが「詩人」である。高柳である。
きのう触れた時里二郎のことを書いた詩。《非在のアオサギ》などのことばによって、時里は「詩人になる」、そして高柳は《非在のアオサギ》ということばによって時里を「詩人にする」。「詩人」として「認識する(認識している)」と読み直すことができるだろう。
「する/なる」は「断定/固定化」のように見えるかもしれないが、そうではない。「動きつつ」の「つつ」が明らかにしているように、そこには常に「同時」に「断定/固定」を否定するものが動いている。
だから詩は書き続けられる。終わりがない。
![]() | 高柳誠詩集成 1 |
| 高柳 誠 | |
| 書肆山田 |
