金井雄二が出している詩誌も小さなもの。「目移り」がしない。今度の号の「縁側」は、こういう作品。
明け方
雨の降る激しい音で
目が覚めた
庭先の縁側から
雨に濡れて
父親が入ってきた
土気色の顔をして
精気がない
冷たい手で
握手をした
僕は父親に
なんとなく詫びた
べつに詫びる必要もなかったけれど
「父親」は幽霊。死んでいるのだろう。「雨に濡れて」は。陰湿な感じ。「土気色の顔」「精気がない」「冷たい手」も同じ。死人の姿。紋切り型の表現である。こういう表現はおもしろくないし、私は幽霊というものを見たことがないし、感じたこともないから、リアルかどうか判断できない。ありきたりだなあと思って読む。
でも「ぼくは父親に/なんとなく詫びた/べつに詫びる必要もなかったけれど」は金井の人柄をあらわしている。人柄がわかって、おもいろい。
三行ほど省略するが、この詩はこうつづく。
父親はなにも言わないので
母親のことや姉のことや妹のことを
かまわずにしゃべりまくった
黙って聞きながら
ときどき薄笑いなど
うかべて
いつのまにか
庭先の縁側だけになってしまった
「庭先の縁側だけになってしまった」で、私は傍線を引いた。うまい。「消えていなくなった」ではなく、残された「事実」だけを書いている。このとき「縁側」そのものが「父親」に見える。父親はきっと、いつも縁側にいたのだ。部屋の中や便所にもいただろうけれど、金井が思い出す父親は縁側と一体になっている。縁側を見ると父親を思い出すのだろう。
また来るだろうと思ったし
怖くなかった
外では水滴たちが
鳴り響いていて
その音楽で
ぼくはふたたび
目が覚めた
この終わりは、縁側にあらわれた父親が「夢」だったと説明している。「論理」にしてしまっている。
ここは残念。
「庭先の縁側だけになってしまった」で終わるとすっきりすると思う。書き加えるにしても「また来るだろうと思ったし/怖くなかった」まででいいのでは。
最後は「土気色の顔」云々と同じように紋切り型。「論理」の紋切り型。「縁側」という「事実」が「論理」のなかに飲み込まれ、消えてしまう。「形式」になってしまう。
*
金井裕美子「きのうの十五夜」は金井の詩と共通した匂いがする。十五夜を見ようとすると、「おばあちゃん」ついてくる。その中ほど。おばあちゃんの話。
ゆうべ 初恋のひとがきて
真正面から
じいっと見るもんだから
ああ見ないで 恥ずかしい
こんなにあたしばかり
歳をとっちゃった と
両手で顔を隠していたら
いなくなっちゃった
「初恋のひと」は死んだひとかもしれない。おばあちゃんは生きているのか死んでいるのか、わからない。私は、死んだおばあちゃんと金井が会話し、その会話の中に「おばあちゃんの初恋のひと」が出てきたのだと思って読んだ。死んだひとが現われるということが二回繰り返されることで、それがまた繰り返されるだろうと想像される。つまり、この詩を読んだひとは、金井もそういうおばあちゃんになって、だれかに思い出の中に現われ、「ああ見ないで 恥ずかしい/こんなにあたしばかり/歳をとっちゃった」と言うんだろうなあと思うと楽しくなる。死んでいるのに、生きている感じ。
「論理」が繰り返されることによって「現実/事実」になり、どう詩に「現実」を超える「永遠」になる。そこがおもしろい。
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