鈴木正枝『そこに月があったということに』(3) | 詩はどこにあるか

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鈴木正枝『そこに月があったということに』(3)(書肆子午線、2016年10月31日発行)

 「一輪」を読む。

この家の
見えないところに咲いていた真っ赤な蕾を
テーブルのコップにさした人がいる
切り取られ
見つめられて
花は初めて薔薇になった
その時から
私と薔薇との関係が
誰かによって始められた

 この一連目の「関係」ということばが鈴木の詩、ことばの運動を動かしているかもしれない。
 ここに書いてある「関係」ということばを説明するのはとてもむずかしい。むずかしいのは、「わからない」からではない。「わかっている」から、むずかしい。変な言い方になるが、この「わかっている」を説明するために、どこかから、既成のことばを借りてくることができない。そこが、むずかしい。
 ここに書かれている「関係」は「それ」と指さすようにしてしか語れない何かなのだ。薔薇がある。薔薇を見た。薔薇をコップにさした人がいる。いま、そこには、いない。けれど薔薇があるということは、その人がいたということ。「いた」という「過去(形)」が「いる」という「現在(形)」として、そこに「ある」。それを「薔薇」を指さして示すときに「肉体」のなかで動いている何か。
 「肉体」のなかに「ある」、「肉体」のなかで「動く」。だから「わかる」。「わかる」けれど、既成のことば、流通していることばで語れない。
 「切り取られ/見つめられて」という「受動」。そこには書かれていないが「切り取る/見つめる」という「能動」の「動き/動詞」が存在している。存在して「いた」と「過去(形)」で書いた方がいいのかもしれない。しかし、その「過去(形)」は何か「便宜上」のもの、「方便」のようなものであって、それはいつでも存在して「いる」。「現在(形)」である。
 この「過去」と「現在」の、強い結びつきが「関係」である。
 そしてそれは「薔薇になる」の「なる」という形で動いている。この4なる」という動きのなかには、繰り返しになるが、「受動/能動」「過去/現在」も強く結びついている。その結びつきは強すぎて、ほどくことができない。

 この強さは、実は、詩の書き出しからはじまっている。
 「この家の」の「この」。「この」は、ことばで説明するとむずかしい。けれど、日常的には簡単。指さして「この」家、という。「身振り」で納得してしまっている、何か。その「強い結びつき」。「この」と指さした瞬間にはじまり、おわる何か。
 この「関係」を、鈴木はどう生きるか。

そこだけ違う空気の中
新鮮な水を血液のように吸って
毎日一枚ずつ開かれていく花びら
すべてが開ききって
もう開くものがなくなった時
コップから抜きとって掌にのせる

 何をしているのだろう。何もしていない。そこに書いてあることをしているだけである。それ以上ではない。それ以上ではないから、それ以上なのである。「意味」にしない。「意味」が生まれるのを否定する。それでも「意味」が生まれてこようとする。あるいは、「意味」を生みだそうともがいているものがある。
 「これ」、「このことば」と言うしかないもの。
 もっと簡単に言いなおすと、感想を聞かれたとき「ここが好き」と、ただその行(そこに書かれていることば)を指さし、示すしかないもの。
 指さし、示したとき、そこに「関係」が生まれてくる。「関係」がはじまる。その「関係」は、説明できない。
 でも「わかる」。
 「この」家。なのに、「そこ」だけ「違う」。この「違い」を感じてしまう何か。その「違い」を語るために「一枚ずつ」花が開くように、「一行ずつ」ことばを動かす。その「動き」が、ほかのひとの(詩人の)ことばと「違う」。
 「違う」と「わかる」から、「ここが好き」と言う。

切り取った人は
すでに
この家にはいない
もうひとつ
別の階段があることを
私はいつも忘れてしまう

 「いない」。「いない」が「わかる」のは「いた」ことを知っているからである。いや、「知っている」というよりも「わかっている」のだ。この家に「いない」とき、その人はどこに「いる」のか。どこに「いる」と「わかっている」から「いない」と言えるのか。
 「もうひとつ」と「ない」はずのものを生み出してしまうもの(あるいは、こと)が「関係」なのだろう。それは「いつも忘れてしまう」。けれど、いつも思い出してしまう。いつまでも「おぼえている」。
そこに月があったということに
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書肆子午線