藤田晴央「合唱」は母親が編み物教室を開いていたときのことから書きはじめている。その後半。
取っ手のついたレールカーのようなものが
編機の上を行ったり来たり
ザーザーという音が鳴り響いていた
よしこ さちこ けいこ みちこ ふみこ
たくさんの編み針が毛糸を編んでゆく音であった
ザーザー
ザーザー
少年のわたしはそれを
夜の海の音のようだと思った
ところが 先日
母の教室で学んだ婦人がこう言った
あれは合唱のようでした と
たしかにそれは
あのころ
家族のために
編物を学んでいた若い女たちの
合唱だった
奥深くにひびく
たまらなく女臭い
合唱だった
「合唱」についての説明は何もない。少年の藤田が「海の音」と聞いた音を、編み物をしていた女性は「合唱のようでした」と言っただけである。けれど、藤田はそのことばをそのまま納得している。そこに、
家族のために
ということばをひとこと挟んで。
女性たちはセーターを編む。それは自分が着るものではなく、家族の誰かが着るものである。母親、父親ということもあるかもしれないが、たぶん、兄や弟だろう。母親や父親は、自分でセーターを着るよりも子どもにセーターを着せたがる。若い女性は若い女性で、自分でもセーターを着たいけれど、それよりもまずセーターを編むことができない兄や弟のセーターから編みはじめる。家族のためにの「ために」とはそういう意味だ。
藤田に姉がいたかどうか、私は知らない。けれど、そのころの「家族」というものはそういうものだったと知っている。だれもが自分のためにではなく、家族のために何かをした。
最後から二行目の「たまらなく女臭い」が、とてもかなしい。女性は家族のために仕事をするというのは「男尊女卑」の考え方かもしれない。けれど「男尊女卑」などと言って権利を主張している余裕はない。そんなことをしているよりも「家族のために」働かなければならない。けれど、それは「たまらない」何かを含んでいる。無言の「たまらなさ」を含んでいる。そこには「よしこ さちこ けいこ みちこ ふみこ」と名前で呼びあう親密さ、一種の「暮らし方の共有」がある。名前だけではなく、互いの「家族(暮らし方)」も知っている。
語り合ったわけではないが、そういう思いが無言のまま「ザーザー」という音のなかにひびいている。それは機械の音ではなく、彼女たちの声だった。それが「合唱」というのは、みんながそう思いながら編み物をしていたということ。やがて編み物教室をひらきたいと思っていたひともいるかもしれないが、それも「家族のため」に、金を稼ぐために教室をひらくのであって、「自分のため」というのは、脇に置かれている。
そして、それは藤田の母についても言えるかもしれない。母親は編み物教室をしていた。それはやはり「家族のため」だったのだ。それが、藤田には突然わかったのである。
藤田は、いま、家族のことを思っている。藤田は編み物をするわけではないだろうが、このときセーターを編みながら家族のことを思っただろう女性といっしょに合唱している。自然に、それが合唱になったために、どんな合唱かは言う必要がないのだ。
誰かが「早春賦」を歌っているとする。つられて、ふっと「早春賦」を口ずさむ。「合唱」とまではいかないが、それに似たことが起きる。そういうことが起きるのは、その歌を知っているからだ。藤田が「合唱」ということばにひっぱられ、そのまま「合唱」してしまうのは、藤田は「家族のため」という思いを知っているからだ。
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