喜多昭夫『悲しみの捨て方を教える』 | 詩はどこにあるか

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喜多昭夫『悲しみの捨て方を教える』(私家版、2015年05月15日発行)

 喜多昭夫『悲しみの捨て方を教える』は歌集。タイトルは、

「しそつくね、いかがですか」と言う君に悲しみの捨て方を教える

 からとっている(らしい)。このときの「君」がほんとうに悲しんでいるのかどうか、わからない。だから、喜多が「悲しみの捨て方を教える」ということばに酔っているように感じる。「悲しみを捨て方」ということのなかに「抒情」を感じているんだろうなあ、とも思う。「教える」という、少し冷めた距離感が「悲しみ」を軽いものにしている。「悲しみ」を「捨てられる」ものにしているかもしれないなあ。(捨てたくない人もいるんだろうけれど、という反論は喜多には通じないかもしれない。)「教える」というのは、たぶん「知(知っていること)」を「教える」のであって、その「知(知っている)」は「方(方法)」になっている。「抒情」とは言っても、「感情(感性)」よりも「知性」の方が主体となって動いている。あるいは感情を知性で抑制している感じがする。
 これは私の「直観の意見」であり、「証拠」も何もないのだけれど、こういう「声(音)」の調子は万葉にはなかったなあ。古今集以後だろうなあ。万葉は大声で相手に向かって言っている。誰かに向かって言っていることを、遠くの人にもわからせるような大声の強さがある。
 喜多の歌は、大声では言えないなあ。耳元でそっとささやく。いや、文字にして書いて渡すのかな? 小さな声だ。
 だから、

ローソンのロールキャベツを食べながら生きてることに感動してた

 と「感動」を歌いながら、ぜんぜん「感(情の)動(き)」が「強さ」となって伝わってこない。うれしさがない。「これが生きることなんだ」と自分に言い聞かせている、「無言の声」になってしまっている。「食べながら」だから「声」を出せないということもあるかもしれないが、これでは「感動」の押し売りになるかもしれないなあ。
 こういう「声の調子」が現代の短歌の主流なのかもしれないが、私は、ちょっと納得できない。
 でも、納得できないことをいくら書いてもしようがないか……。

欠けているところがきっと愛なのだろう 視力検査のランドルト環

 そうか、視力検査の「C」の字があっちを向いたりこっちを向いたりしているのは「ランドルト環」というのか。知らなかったなあ。知らなかったものが、ちゃんとことばになるのは楽しいなあ、と感じる。
 喜多の歌は、こういう楽しさに共感するとき、「いい歌だなあ」ということになるのかもしれない。あの「C」の、環の切れたところ、それが「愛」なのか。しゃれているね。「愛」が何であるかということはことばにしなくてもわかっていることなのに、こんな奇妙な言い方をされると、あ、そういう言い方は知らなかったなあと驚く。
 「知」の驚き。
 たぶん、これだな、喜多の歌を定義するとしたら。
 「知」が驚く。その驚いた「知」が「感情(たとえば、愛)」にひっかき傷をつくる。そして、それを「抒情」と呼んでみる。何となく、かっこいい。

<しらさぎ>に揺られつつ読む道造よ 君の抒情がカーブしてゆく

 「道造」と「抒情」の組み合わせはあまりにも安直すぎるが、それを「しらさぎ」(北陸線の特急?)の「カーブ」と重ね合わせる。その重ね合わせ方が、「頭」的。(知的)。カーブを走るとき、「肉体」は傾くが、「肉体」そのものはカーブしない。カーブするのは、あくまで線路。「肉体」が受け止めたものを、頭の中で整理して、視覚化する。その操作が「知的」。気づかなかったことを教えくれる人は、何となくかっこいい。
 「君」は「道造を読む君」。道造の抒情がカーブするのではなく、あくまで読んでいる「君の抒情」がカーブする。そんなこと、「君」しかわからないのに、喜多が「君」のかわりに断定している。その「飛躍」と、「飛躍」を支える「知」(線路がカーブするから、君もカーブして動いている)の操作が、喜多の抒情である。
 うーん。「かってに私の感情をつくりあげないで」と怒る「君」には出会ったたことがないのかもしれないなあ、喜多は。
 まあ、いいか。

いいなりになるのがそんなにいやでなくレモンの輪切りをかたくしぼった

 「レモンの輪切りをかたくしぼ」ることくらい、いいなりになってやったって、かまわない。(か、どうか、ちょっと疑問ではあるのだけれど。)



 感想を書く順序を間違えたかな?
 どうも、アトランダムになってしまう。アトランダムのままつづけるしかない。
 巻頭の、

航跡が消えずにのこる夢を見た びるけなう、びるけなう 遥なり

 「びるけなう」は外国の都市(港町)の名前だろう。わからないが、ここに書かれている「夢」は夢らしく矛盾している。つまり、消えない航跡などないのに「消えずにのこる」というのが矛盾していて、それが矛盾しているからこそ、「びるけなう」を忘れられないという感覚を強める。忘れられないというのは「記憶(肉体)」にしみついていること。「肉体」になっているということ。しかし、それは「遥か」にある。その矛盾とも響きあっている。この歌が、いちばんいい歌かもしれない。「びるけなう」からの下の句(でいいのかな?)は音がのびやかで、先に書いたことと関連づけて言うと、ここには「万葉の音(声)」がある。気持ちがいい。大声で読みたくなる。
 でも、基本的には喜多は弱音の歌人なのだと思う。

歩幅さえ忘れてしまう 野いちごの散乱があまりにうつくしすぎて

 この「散乱」は大声では何を言っているかわからないだろう。静かに「頭」のなかで「さんらん」が「散乱」になるのを待たないといけない。「さんらん」が「散乱」になって、はじめて「うつくしい」が動く。そして、それがほんとうに動くときには「うつくしい」は「うつくしすぎて」と過剰になる。その過剰が「抒情」だね。

消しゴムでけしてしまうとうすくなる 秋空を雲流れゆきたり

 この「うすくなる」も大声では伝わらない。ほとんど「息」そのものにして声を殺したときに見えてくる薄さだろう。その薄さを、さらに「秋空を雲流れゆきたり」と強い音で消し去ってしまう。「うすくなる」を「秋空を雲流れゆきたり」のあともおぼえていられるか、どうか。「文字」を読むときは確認ができるが、「声(音)」で聞いたら、思い出せないかもしれない。

側溝に捨てられている皺くちゃのアルミホイルは原罪だろう

 「原罪」がわからない。「ことば」としては知っているが、ここに書かれている他のことばとの関係のなかでは、私の場合、すんなりとおさまらない。喜多がほんとうに「原罪」を感じながらこの歌を呼んだのかどうか、さっぱりわからない。「頭」ででっちあげた歌のように感じられる。
 こういう歌は、私は嫌いだ。

うたの深淵―詩歌論集
喜多昭夫
沖積舎