早崎文香「いのち」は平田俊子が選者の「こどもの詩」の作品。早崎文香は「横浜市・中尾保育園年少」。自分で書いたのではなく、言ったことばを誰かが書き留めたものかもしれない。漢字交じりの作品なので、自分で書いたとは考えられない。
なくなった は
死んだこと
呼ぶ は
生きていること
この作品に対して、平田は
文香ちゃんの声は天国のお父さんにちゃんと届いていますよ。何度でもお父さんに呼びかけよう。
と書いている。このことばを書き留めた人が、「お父さんが亡くなった」と注釈していたのかもしれない。
「お父さんは亡くなった」と誰かが言った。「亡くなった」ということばがわからずに、早崎は「亡くなった、ってどういう意味?」と聞いた。「死んだんだよ」と大人が説明した。そのあと「呼ぶ」は、そのまま早崎が自分で考えたことか。あるいは、「でも、お父さんは天国で生きている。だから、呼びかけようね」と言われて、「そうなんだ」と納得して、そのことを言い直したのか。ここは、ちょっとわからない。平田のことばは、そんなふうに読んでいるように思える。
子どもの詩(ことば)というのは、どこまでその子どもの考えをあらわしているのか、よくわからない。現実にことばが出てきたとき、そこにいれば少しは「感じ」がわかるかもしれないが、「活字」になってしまうと、ますますわからない。大人がととのえなおしたことばには、大人の視点が入ってしまう。そこには、子どもにはこうあってほしい(こう考えてほしい)という大人の願いがまじってしまう。子どもの姿を、大人の願いにあわせてととのえなおしてしまうところがある。
私は、平田とは違ったことを瞬間的に感じた。
「呼ぶ」と「生きている」の関係を、「お父さんが天国で生きている」、だから「呼ぶ(呼びかける)」ではなく、早崎は「生きている」、だから「呼ぶ(呼びかける)」ことができる。「天国のお父さん、元気?」と呼びかけることができるのは、早崎が「生きている」から。「生きている」を実感している。「生きている」ことがどんなにすばらしいかを感じている。
そう読みたいと思った。
「呼ぶ」を「ことばを出す(何かを言う)/動かす」と言い換えてみる。「ことばを動かす」は「書く」ということでもある。それは、私が生きているからである。生きているから、何かを言わずにはいられない。--こう考えるのは、子どもの発想ではなく、大人の発想かもしれない。
でも、私は、そう読みたい。
生きている。だから、何かを言う。言わずにはいられない。ことばを動かして、少しずつ自分をととのえる。
そんなことを考えた。
「読む」とは、他人のことばを引き受け、自分なりに動かすことだ、と私は考えている。自分をととのえなおすことだと考えている。
![]() | 平田俊子詩集 (現代詩文庫) |
| 平田 俊子 | |
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