暁方ミセイ「ロータスマウンテン、朝に消える」、久谷雉「物理」 | 詩はどこにあるか

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暁方ミセイ「ロータスマウンテン、朝に消える」、久谷雉「物理」(「現代詩手帖」2015年07月号)

 私は「魂」とか「精神」というものが苦手だ。「精神」ということばは「方便」としてつかうが、「魂」ということばはつかわない。存在するとは思えないからである。「こころ」というものも、存在するかどうか、あやしい。
 で、「どこにいても幽霊だ」とはじまる暁方ミセイ「ロータスマウンテン、朝に消える」の詩は、最初からとまどってしまうのだが。

血の通わなくなった心臓のなか
一瞬で凍ってしまったきり
もう変わることのない感情が
せめて開きかけたくちびるみたいに
きれいであるよう

 この部分が好きだなあ。
 「精神」も「こころ」も苦手だから「感情」というのも苦手なのだが、「開きかけたくちびる」という具体的な肉体が「感情」なのだな、と感じる。「せめて」は「いのり」のように、強い。強い感情が「いのり」であり、それが「くちびる」と「ひらきかけた(る)」という動詞といっしょに動いているところへ、私の肉体は自然に動いていく。「きれいであるよう」は「いのり」を別のことばで言ったものだろう。
 後半の、

血と肉が蓮の色に開け
山肌を染める時間、
一日が、闇のなかから切開され、
生み落とされる瞬間、
いなくなったすべてのわたしを
抱くことができる時間に、

 この朝の描写が張り詰めていて美しい。「ロータスマウンテン」(チベットにあるのだろう)の朝を知っているわけではないが、あ、こんなふうなのか、と思ってしまう。「蓮の色に開け」の「開く」という動詞のつかい方が、人間の肉体を超え、絶対的というか、宇宙的というか、強烈だ。
 朝という新しい時間のなかに、過去(いなくなったすべてのわたし)を抱くというのは、そういう絶対的な時間と人間(暁方)がしっかり向き合っている感じがして、壮大な感じ(肉体がひろがる感じ)がする。「抱く」という動詞が強い。

平らな
平らな世界を
頭の上を流れていく
冷やかな空気の
匂いで知るよ

 最後の「匂いで知る」というもの、とても印象に残る。「嗅覚」が生きている。目覚めている。



 久谷雉「物理」の後半。

草の上にしゃがむ人よ
立つ力よりも
しゃがむ力に
ゆがめられた足を
わたしくは愛する

 「立つ」と「しゃがむ」を比べ、そこに「ゆがめられた(る)」という動詞を組み合わせているところが魅力的だ。「足」のことを書いているのだが、足を超えて肉体全体の存在を感じる。「ゆがみ」は肉体全体をつたわって、支配する。



ブルーサンダー
暁方 ミセイ
思潮社