「冬の金木犀」は、「詩って何だと思う?」のつづきで言うと、「発見された」金木犀である。
私は「冬の金木犀」がどんなものか知らなかった。私の知っている金木犀は「甘いつよい香りを放つ」花である。いや、その強い匂いである。
しかし長田は、「甘いつよい香りを放つ」と書くことで、その金木犀(誰もが知っている金木犀)を捨てる。そして、世界のどこかに隠れていた金木犀を書く。そのことばといっしょに、新しい金木犀が「現れる」。その「現れ」を描写することばを通して、私は新しい金木犀を「知る」。そして、「目覚める」。
秋、人をふと立ち止まらせる
甘いつよい香りを放つ
金色の小さな花々が散って
金色の雪片のように降り積もると、
静かな緑の沈黙の長くつづく
金木犀の日々がはじまる。
「新しいもの(発見されたもの)」は最初はわかりにくい。いままで知っていたものと違うからだ。「静かな緑の沈黙の長くつづく/金木犀の日々」。これは金木犀を描いているのだが、すぐには何かわからない。金木犀が「緑の沈黙」をつづけている、って、どういうこと? 金木犀は常緑樹だ。いつも緑。「沈黙」ということばからは、私は何か「存在しない」という印象をもつ。「不在」の感じ。何かに反論したいけれど、ことばを発せずに沈黙する。そのとき、反論が「不在」になる……という感じ。だから、常緑樹なのに「緑の沈黙」は奇妙。何か、違和感がある。
その私の違和感を解きほぐすように、長田のことばはつづいてゆく。「緑の沈黙」を長田は言い直している。
金木犀は、実を結ばぬ木なのだ。
実を結ばぬ木にとって、
未来は達成ではない。
冬から春、そして夏へ、
光をあつめ、影を畳んで、
ひたすら緑の充実を生きる、
歯の繁り、重なり。つややかな
大きな金木犀を見るたびに考える。
行為じゃない。生の自由は存在なんだと。
「緑の沈黙」とは、実を結ばず、「ひたすら緑の充実を生きる」と言い直されている。「実を結ばぬ」ことが「沈黙」。「達成(実を結ぶ)」を求めない。「ひたすら」緑を充実させる。緑は「実」のためではなく、「甘いつよい香りを放つ/金色の小さな花々」のために生きている。きっと、「緑の充実」(太陽から栄養を吸収し、ためこむこと)が、あの花の香りに結びついているのだろう。「光をあつめ、影を畳んで」の「集める」「畳む」という動詞に、そういうことを感じる。「畳む」は「畳み込んで、しまう、蓄積する」というイメージにつながる。
「ひたすら」というのは、「夏、秋、冬、そして春」に出てきた、
ただに、日々の気候を読む
の「ただに」ということばを連想させる。長田は「ただ、ひたすらに」何かをするということを「生き方(思想)」としていたのだ。それが、こんなふうことばになってあらわれている。
最後の二行は、「意味」をつかみとるのが難しい。長田にはわかりきっていることなので、ぱっと言ってしまっている。説明しようとしていない。
「行為じゃない」は「達成ではない」ということかもしれない。「実を結ぶ」ことではない、と言い換えることもできるかもしれない。「未来(生き方)」を私たちはおうおうにして、何かを達成すること(何らかの結果を出すこと、実を結ぶこと)の先にあると考える。しかし「生きる」ということは、必ずしも「実り」とは関係がない。「実を結ばぬ」ことがあっても、人は生きている。「存在している」。
長田は、この「存在」を「自由」と結びつけている。
「実を結ばない」、けれど「緑の充実を生きる」。そこに金木犀の「自由」がある。その「自由」こそが、金木犀の「存在」。「散って/金色の雪片のように降り積もる」花、そしてその花の放つ「甘くつよい香り」、消えていくものを支える生きる緑。でも、そんなことは「言わない」。何のために生きているか、こざかしいことは言わない。「沈黙」をまもり、知らん顔している。そこに長田は「自由」を感じている。
長田の「哲学/思想」(生き方)の静かな主張を感じた。長田の「肉体」を感じた。
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