嵯峨信之を読む(102) | 詩はどこにあるか

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嵯峨信之を読む(102)

153 蛆虫の唄

俺は大笊の中いつぱい蛆虫を飼いながら
そのしずかな唄に聞き惚れる
湯沸しから湯がもれるような
あるいは木の葉に蛾が卵を産みつけるようなあのふしぎな唄を聞く
この直情の唄だけが俺を少しも欺かない

 強烈な響きの詩である。蛆虫とこころを通わせている。「直情」を感じ取り、それを信頼している。
 この「直情」ということばにたどりつくまでに、嵯峨は「その」「あの」「この」ということばをつかっている。指示詞。その繰り返しは、嵯峨が、ながいあいだ蛆虫について考えていたことを感じさせる。ながいあいだ親しみ、ことばを動かしながら「直情」という表現にたどりついたのである。
 時間をかけず、インスピレーションのままにつかみとったことばも強いが、こんなふうに少しずつ何かを確かめるように動きながら手に入れたことばも強い。

俺はそつと笊の中へ手を入れる
すると蛆虫は手首から腕へ
腕から脇の下へ 脇の下から頸へぞろぞろと這い上つてくる
俺はその蠕動のやわらかなひろがりに全身を快く委ねる
俺は陶酔し 恍惚となり 深い深い眠りにはいつてしまう

 これは異様な光景だが、先に見た「その」「あの」「この」の繰り返しが、ここでは「手首から腕へ/腕から脇の下へ 脇の下から頸へ」という尻取りのようなことばの動き、前のことばを引き継ぎ、もう一度繰り返すという形であらわれている。それはさらに「快く」「陶酔」「恍惚」という変化にもみられる。意識を飛躍させるのではなく、先に書いたことばを引き継ぎ、連続させる。その「連続」の最後に「深い深い眠り」がやってくる。「深い深い」も単なる「深い」反復ではなく、ことばを引き継ぎ別な世界へ入っていくための「論理」である。動き方、運動の仕方である。
 だから「深い深い眠りにはいつてしまう」と書いても、それで終わりではない。最初の「深い」と二度目の「深い」では内容が違っている。そこからさらに状況は変わる。「恍惚」とは違った場面へと詩は動いていく。

しかし 俺はとつぜんその蠢く厚手のバスマットに強く緊めつけられて 愕然とする
俺は慌てて全身の力で蛆虫を振い落とそうとするが その時はもう遅い
このどこまでも吸いつく柔軟なバスマットの海老固めはますます烈しさを加える
俺はとどのつまりその場に昏倒して 息絶えてしまう

 これは「激変」というものだが、その激変はなぜかゆっくりしている。前半の、ひきずるようなことばの動きがそのままことばのなかを動いているからである。「烈しさ」ということばが出でくるが、「烈しさ」ということばがないと「烈しさ」を表現できないような、ゆっくりとした変化。ゆっくりしているが、けっして変更できない(引き返せない)強い変化である。
 その「意味」よりも、そういう動きに至ることばの連続感が詩そのものである。
 よく見ると、最初につかわれていた指示詞が復活してきている。「その」蠕動、「その」蠢く、「その」時、「この」どこまでも、という具合に。「昏倒」「息絶える」という意味の繰り返しもある。
 「蛆虫」は繰り返し繰り返し、人間にまとわりついてきて何かを連想させるものである。

嵯峨信之全詩集
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思潮社