嵯峨信之を読む(95)  | 詩はどこにあるか

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嵯峨信之を読む(95) 

146 自裁

船は
暗い波の上を
魂の上を

 「暗い波」は「魂」と言い換えられている。そのことによって「船」が現実の船ではなく「比喩」であることがわかる。
 この「比喩」から始まる「旅」は、しかし、よくわからない。「野にかかる虹」という章に収められている作品は、私にはよくわからないものが多いが、この作品もそうだ。詩の終わり、

そして火花散る闇の中に浮かぶぼくの顔を槍で刺せ
蛙の真赤な泣き顔を正面からおもいきり槍で貫らぬけ

 この二行は書き出しの短いリズムとも違いすぎている。「蛙」の比喩が唐突すぎる。

147 某日

落日の血を浴びているぼくの拳
そそくさとたちさる税吏
すぐそこで風を切る烈しい矢羽の音
ぼくは鳥籠の十姉妹にやる葉を刻みはじめる
ぼくの手はしだいにやわらかになつて
いつのまにか小さく小さく刻みはじめている

 この詩も前半と後半がさまがわりする。前半は「現実」の厳しさを書いたものか。後半は小鳥を世話する個人的な暮らしを書いている。小鳥のための葉をきざみながら、

ぼくの手はしだいにやわらかになつて

 いく。そのときの「やわらかに」がとても「肉体的」だ。葉を刻むという規則的な動きによって気持ちがととのえられていく。日常の仕事の大切さが、そこにある。平凡を繰り返すときの、しずかさがある。
嵯峨信之全詩集
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思潮社