嵯峨信之を読む(94)  | 詩はどこにあるか

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嵯峨信之を読む(94) 

145 薊の花

真夜中
どんな星がすべてから離れて遠くへ飛散した

 魅力的な書き出しだ。星が星から遠く離れていく。「すべてから」が「ひとつ」を逆に強調する。孤独の美しさ。
 しかし、

その一すじの軌跡が残るのは詩人の心のなかだけだ

 こうつけくわえられるとき、その「孤独」は「論理的」になりすぎて、すこし窮屈な感じになる。ここまで書かない方が読者のころのなかに星の軌跡が動くかもしれない。書かれてしまうと、それは読者のこころのなかで起きたことではなく、詩人(嵯峨)のこころのなかだけで起きたことのようになってしまう。
 嵯峨のこころのなかで起きたことなのだから、それでいいのかもしれないけれど、それでは詩人(嵯峨)を特権化してしまっているようにも感じるのである。
 この詩は、いま見たように「真夜中」から始まるのだが、十二行のあいだに朝がきて、夕方になるとかなり忙しい。その最後に薊が出てくる。

その行手を薊の花で飾れ
散らばる悔恨の薊の花で飾れ

 「悔恨」ということばが、そこに描かれている詩人に「意味」を与えすぎているように思う。書き出しの「飛散」は「散らばる」と言い直されている。そのことによって、飛散した星が薊の花となって咲いているという「比喩」が完結するのだが、「悔恨」ということばに意味がありすぎて、なんとはなしに詩が重くなっていると感じる。

146 牧場(まきば)への道

 「約束を忘れたら/大きな重い氷冠をかぶつて思い出せ」と始まる。「氷冠」の「比喩」がわからない。最後の一行、

しかし誰もまだその真中の道を帰つてきたものはない

 の「真中」という指示の仕方が、書かれていることの「真剣さ」を暗示している。
嵯峨信之全詩集
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思潮社