130 別離--十七世紀の木版画に題して
「別離」からは「愛の終りの歌」という章になっている。「別離」はタイトルどおり、女と別れる詩である。
女は言葉少なく
--時をのばして
と それだけいつた
氷柱(つらら)を折るような短い言葉づかいはいままでにかつてない
「時をのばして」は「もう少し待って」くらいの意味なのか。「もう少し待って」の場合だと「主語」は「あなた(嵯峨)」。だが、「時をのばして」はどうだろう。やはり「あなた」なのだろうか。何となく違う印象がある。ひとは「待つ」ことはできる。けれど「時」をのばしてたり縮めたりはできない。その不可能なことを依頼している。「主語」は「あなた(つまり、嵯峨)」を超えている。そこに、何か切実なものがある。
「短い言葉」と嵯峨は書いているが、その「短さ」のなかには気持ちが凝縮している。「もう少し待って」よりも強い気持ちが凝縮している。「強い」と感じるのは、それが尋常ではない表現だからである。あ、何か特別なことを言おうとして、ことばが結晶してしまった、という感じ。
この感じを嵯峨は「氷柱を折るような」という「比喩」で言い直している。
「氷柱」は女の感情が結晶したもののように感じられる。少しずつ固まって大きくなった氷柱。濃い透明な氷。それを力を込めて折る。何を思っているのか、はっきりとはわからない。けれど、強い力がいる。その強さが、「肉体」のなかに直接響いてくる。
氷柱を折ったときの、肉体のなかで動いた力。折れた氷柱が反射する光の無数。「氷柱」は女の感情の「比喩」なのだが、「女の感情」を超えて、人間すべてのいのちにつながる「結晶」のように感じられる。つまり、自分の「気持ち」でもあるように……。
「時をのばして」という不思議な、「主語」を超越したことばが、人間の区別を超えて何かに触れている感じがする。
ぼくは冬の薄日のさしている石畳をこつこつと海の方へ歩きながら
(時をのばす 時をのばす)
と 二三度つぶやいてみた
このとき、もう「時をのばす」は女の気持ちではない。嵯峨の「肉体」のなかで動いていることばである。繰り返しながら、嵯峨は、女の結晶した感情に触れ、その切実さを、氷柱に触るときのような実感として「肉体」で感じている。
これは嵯峨にとっては「いままでにかつてない」瞬間だ。
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