嵯峨信之を読む(74) | 詩はどこにあるか

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嵯峨信之を読む(74)

121 御霊村小学校

いつぱい咲いたところから
花は散りはじめる

 この書き出しには、「道成寺」の「対構造」(矛盾の構造)に似たものがある。「咲く」と「散る」は反対の動きである。その「反対の動き」は「いつぱい」という「充実」のなかで結びついている。そのために「反対」がより劇的に見える。
 ここにすでにドラマがある。

小さな神がどこかでその日を記しているのだろう
きょうはある日からはるかに遠い日だ
散りしきる花吹雪のなかを
なぜかひとひらが遠いところへと舞い落ちる

 この詩には「一九四五・四・一日節子小学一年生」という「注」がうしろについている。「節子」というのは、だれか死んだ子どもの名前かもしれない。小学校に入学するのをまたずに死んだ。そしていま、花吹雪のひとひらとなって散っている。なぜか遠いところへと舞い落ちるひとひら。それが節子のように思える。
 この悲しみは、書き出しの「いつぱい咲いた」の「いつぱい」と強く結びついている。節子は「いつぱい」に咲ききった。存分に生きた。だから死んでしまったのだ。悲しみを、そう思うことで乗り越えようとしている。
 「小さな神」はいたずらな神ではなく、節子そのものだった。
 「ある日」とは「神」が節子のいのちを決めた日のことだ。「あの日」ではなく「ある日」なのは、特定できないからである。人知のおよばない日ことである。運命は人知のおよばないできごとなのだ。





嵯峨信之全詩集
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思潮社