
苦笑い
詩はホロコーストを生き延びた
核戦争も生き延びるだろう
だが人間はどうか
真新しい廃墟で
生き残った猫がにゃあと鳴く
詩は苦笑い
活字もフォントも溶解して
人声も絶えた
世界は誰の思い出?
一行目はアドルノの有名なことば「アウシュビッツ以後、詩を書くことは野蛮である」を思い起こさせる。でも、人間は苦しみや悲しみを語らずにはいられない。苦しみや悲しみを語ることが生きる方向性を示すこともある。だから詩は書かれつづけている。核戦争の後も生き延びるだろう。東京電力福島第一原発の事故の後も詩は書かれている。人間が生きているかぎり詩は書かれる。もしそれが「野蛮」なことだとしたら、「野蛮」なことも好きなのが人間というものなのだ。
だがほんとうに核戦争が起きたなら、人間は生き延びることができるだろうか。
二連目の「真新しい廃墟」とは何か。私は一連目の「核戦争」ということばから、核戦争後の廃墟を想像した。まだ誰も見ていない「真新しい」廃墟。そこには人間がいない。でも猫がいる。そして「にゃあ」と鳴いている。この「にゃあ」は「詩/ことば」なのか。詩に残された「ことば」は猫の「にゃあ」だけなのか。詩は苦笑いしている。
この「苦笑いする詩」とはなんだろう。私たちの意識のなかにある「詩」というものか。概念としての詩か。詩という概念が人称化されて(比喩となって)、苦笑しているのか。
三連目。各戦争後の「真新しい廃墟」には活字もない。フォントもない。それを使いこなす人間がいない。人間がいないのだから、人声がないのは、もちろんである。文字も声もない、ことばを伝達する手段がないから、当然、詩(作品)も存在しない。核戦争で人間はみんな死んでしまったのだから、そのとき「世界」というものは「誰の思い出」になるのか。思い出す人がいないのに世界が存在するとき、思い出はどうなるのか……。
でも、これはほんとうかどうかわからない。核戦争後のことを誰も知らない。核戦争前に、そういうことを想像している。観念が思い描いた詩である。誰もいないのに世界が存在するとき「思い出」とは一体何なのか、というのは「問い」としては「詩的」だが、それは「観念」にとって詩的ということであって、そういう考えは、まあ、空想だなあ……。
しかし三連目だけ、「詩」ということばがないのはどうしてだろう。
こういう作品にはどう向き合えばいいのか。この作品から「詩について」何を語ることができるか。つまり、谷川とどんな対話ができるのか、私にはよくわからない。
私が最初に思ったのは、一連一行目の「詩」と二連三行目の「詩」は同じものかどうかということである。またどうして三連目にだけ「詩」ということばがないのか、ということである。ひとは大事なことは何度でもことばを変えながら繰り返す。言いなおす。それがふつうなのに、ここではそういう繰り返しがない。三連目だけ、「詩」ということばが消えている。
「詩」についてもう一度考えてみる。「詩」ということばを中心に読み直してみる。
一連目の「詩」は現在私たちが読むことができる作品。現実に存在する詩。ことば、である。「野蛮」と言われながらも、生きている。書かれている。そういう詩。この「苦笑い」もその一篇である。
でも二連目の「詩」は具体的な作品を指してはいない。「詩」というもの、「詩の概念」をあらわしている。「苦笑い」という詩が、猫が「にゃあ」と鳴くのを聞いて「苦笑い」するわけではない。「苦笑いする詩」という概念が想像されているだけだ。「苦笑いする」という「動詞」があるために(谷川は「詩は苦笑い」と体言で表現しているが、用言として私は読み直した)、「概念」が何か抽象でなくなっている。
このことを少し考え直してみる。
「詩は苦笑い」とは詩が苦笑い「する」こと。詩はことば。ことばは苦笑い「しない」。苦笑い「する」のは人間である。詩が「ひと」という比喩、苦笑い「する」という「動詞」を通ってきている。「詩は苦笑い」ということばを読むと、そこにどうしても「人間」を重ねて読んでしまう。「苦笑いする」という「動詞」と「人間」が動いて見える。「人間」の「動き」が見えると、それは「概念」ではなく「具体」に感じられる。
「待つ」という作品では「詩」は「鬼っ子」「師父」という「人間」をあらわすことばで書かれていた。「詩人がひとり」では「胞衣」「子宮」ということばのなかに「胎児」となって隠れていた。「詩」はいつでも谷川にとっては「人間」である。そうであるなら、二連目の「詩」は「詩人」であり谷川であるとも言える。二連目の最終行は
詩人(谷川)は苦笑いする
と書き直すことができると思う。
「詩はひとである」という視点から、さらに作品を見つめなおす。
一連目の「詩」は「人間(詩人)」と置き換えても成り立つ。「人間(詩人)はホロコーストを生き延びた」。だから詩を書くこともできる。(アドルノに言わせれば、アウシュビッツを生き延びるとき、人間の何かが奪われた、生き延びたのはアウシュビッツ以前の人間/詩人とは違う人間/詩人である、ということになるのかもしれないが……。)「詩」を「人間」と同一視するからこそ、三行目に「人間はどうか」という疑問が出てくる。「人間」と「詩」の区別をしないのが谷川なのである。
二連目。「新しい廃墟」には人間はいない。猫がいるだけ。人間がいないということは、もう詩を共有するひとがいないということ。詩を共有するひとがいないのに、ひとり「詩人(谷川)」だけがいる。だから「苦笑い」している。詩を共有するひとがいないのに、詩人である必要はない。「え、私は必要ないの? なのにここにいるの?」と気づいたときの人間の苦笑いに似ているかなあ。「猫がにゃあと鳴いた」とことばにしても、それを受け止める「人間」がいない。「ことば」が「人間」と「人間」のあいだを動いていかない。
三連目に「詩」(詩人)は登場しない。けれど「人声」ということばが出てくる。「人間」が「詩」と同一である、「人間」が「詩」が「人間」を代弁するのなら、「人声」、「人間の声」は「詩人の声」であるはずだ。「人声が絶えた」は「詩人が絶えた」「詩が絶えた」と言い換えることができる。
そうであるなら、「世界は誰の思い出?」の「誰」を「詩人(谷川)」と読むことができるし、また「詩」と読むことができる。二連目で、谷川は「詩人」から「人」を省略して「詩」となっている。(人は自分にとって自明なことは「省略」してしまう。そうやって「ことばの経済学」を生きるというのが私の基本的な考え方である。省略されたことばこそ、キーワードであると私は考えている。)三連目は、そうした谷川の意識が引き継がれている。だから最終行は、
世界は詩の思い出?
と読み直すことができる。私には、そういうふうに聞こえてくる。
谷川はたくさんの詩を書いた。核戦争後、人間が滅んでしまうと、その詩の思い出として存在することになるのか。
あまりにも虚無的で、あまりにも美しい。美しいと感じてはいけないのかもしれないけれど、このセンチメンタルなことばの運動は美しいと私は思ってしまう。
そして多くのことばが相互に入れ代わることが可能なことを考えると、その行はまた、
詩は世界の思い出?
と疑問の形で語りかけているようにも聞こえる。
世界は人間のことばによって描かれ、思い出になる。いつでも思い出せるものになる。(私は、これを「肉体になる」というのだが、そう書いてしまうと谷川の「詩について」の考えとは違ってくるかもしれないので、保留。)そして「詩/ことば」は同時に世界の思い出にもなる。世界がことばを思い出し、世界自身をととのえる--そんなふうに世界が見えてくることがある。
人間とことばと世界が、相互に「自分」になりながら動く。それが「詩」なのだと直感的に思う。
「詩」がなくなるというのは「人間」がいなくなるとこ、「ことば」がなくなること。人間がいるかぎり、ことばがあり、ことばがあるかぎり世界がある。
「あとがき」で谷川は「詩情」と「詩作品」をわけて書いていた。そして、そこには「詩人」ということばが書かれていなかった。そのことを考えてみたい。
「詩情」とは「詩/情/こころ」である。「詩作品」「詩/ことば」である。「詩人」は「詩/人」である。「詩」ということばで「こころ/ことば/人」が引き寄せられながら、どこかで交錯する。「人(人間)」を中心に考えると、「人間」には「こころ」がある。何かを感じる力がある。そして「人間」は「ことば」をつかうことができる。「ことば」をつかって、まだことばになっていない「感じ」を生み出すことができる。まだ形になっていないものに、形を与えることができる。そうやって誕生するのが「詩(作品)」ということになる。
「詩に就いて」、谷川はそういうことを繰り返し書いているのではないか。
![]() | 詩に就いて |
| 谷川 俊太郎 | |
| 思潮社 |
