嵯峨信之を読む(55) | 詩はどこにあるか

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嵯峨信之を読む(55)

98 休暇

ゆるやかな川のながれはいつもとおなじゆるやかなながれだ
それからぼくはふたたび玩具の小さな船を作りはじめた

 この詩の三行目と四行目。「いつもとおなじ」川の流れが書かれたあと「ふたたび」ということばが出てくる。これに先立つ「最初」はなくて、いきなり「ふたたび」なのだが、この「ふたたび」が非常になつかしいものに感じられる。「ぼく」は川の流れのように「いつもとおなじ」感じで船を作りはじめたのだろう。「作る」ということが何度も繰り返されているのだろうか。あるいは「ふたたび」によって、その「作る」時間がこれからも繰り返され、それが「いつもとおなじ」になる感じが含まれてるのかもしれない。
 そういう「時間」のなかで、

遠くで泳いでいたひとりの少年が
ぼくの前を悠々と川しもの方へ泳いでいつた

 その少年は、「幼いぼく」の姿のように見える。幻の「ぼく」であり、実際に少年が流れにのって川下へ泳いでいったということではないかもしれない。
 船を最初に作ったのは少年のとき。それを思い出しながら船を「ふたたび」作りはじめる。そうすると「ぼく」は「少年」に戻って、川を泳いでいく。船といっしょかもしれない。昔の風景が繰り返され、それは「いつもとおなじ」に感じられる。
 そんな感じがつたわってくる。

水の動きと時間の動きのみごとな一致が
この川ぎしをおだやかに充たしている
変ることがこの川にはふしぎなことなのだろう

 「水の動きと時間の動きのみごとな一致」というのは、表面的(?)には、遠くで泳いでいた少年が水の流れに乗って川下へ泳いでいく、そのスピードの一致のように見えるが、そうではないのかもしれない。川の水が流れるように時間は流れる。でも、遠く川上の方を見れば、そこには「少年」だった「ぼく」がいる。その少年は、ぼくが「船」を作はりじめると、少年のときのまま目の前にあらわれて、それから川下の方へ泳いでいく。あるとき、船を作り終えた少年が川下へ泳いでいったように。いや、泳いでいったのは「少年」ではなく、「少年の作った船」だったかもしれない。船を作った「時間」を乗せて(船を作ったという思い出を乗せて)、船は流れていった。それを「少年が泳いでいった」という具合に、「いまのぼく」が見ている。
 川岸にきて、船を作るたびに、「ぼく(嵯峨)」は、そのことを思い出している。変わらない。「いつもとおなじ」。何度来ても、つまり「ふたたび」その川岸にきても、それは変わらない。「変わらない」ことが「当然」(真実)であり、「変る」ということがおきれば、それは「ふしぎ」。
 そういう「思い出の場所」というのは誰にでもあるかもしれない。そういう思い出の場所で「こころ」の休暇を楽しんでいる。「こころ」を休暇させている。
 それにしても、

変ることがこの川にはふしぎなことなのだろう

 この一行は強い。捩れが、強さを感じさせる。捩れは「擬人法」から生まれてきている。川は人間ではないから、何かを「ふしぎ」とは感じたり、考えたりしないだろう。そういう意味で、川は擬人化されているのだが、その擬人化のなかには嵯峨の思いがこめられている。言い換えると、川を擬人化するとき川が人間のようになるのではなく、逆に人間が川になって「ふしぎ」を感じている。川になって、川の時間を生きている。この交錯のなかで、人間と川が「一体」になり、その「一体感」のなかに「永遠(いつもとおなじ)」があらわれてくる。

99 石階(きざはし)の上で

 この「石階(きざはし)の上で」は、「休暇」とはまったく逆のことを書いているように思える。「休暇」の「川ぎし」がなつかしい場所だったのに対し、ここに描かれているのは「新しい場所」(未知の場所)である。

ぼくの血液の収穫にたちあうために
見知らぬ時がそこに立つている

 「見知らぬ時」の「見知らぬ」が「新しい」を意味する。「新しい時」が「新しい場所」になる。おなじ場所であっても「時間」が新しくなれば、そこは「新しい場」になる。「いつもとおなじ」ではなく、「いつもとは違った場」になる。その「違い」を生み出すのが「ぼくの血液の収穫」である。「収穫」よって「ぼく」が変る。そうすると、その「場」が「いつもと違った場」になる。
 そのことを嵯峨は次のように言いなおしている。

大きな門のところに
いつも新しい客が立つているように
いま静かな石階(きざはし)の上にぼくは立つている

 その「石階」は、別な言い方をすれば「大きな門」である。どこかへの「入口」である。「石階」もどこか「新しい場」への「入口」である。

新たな国にむかつて
ぼくは注意ぶかく一歩一歩頂上へのぼつていく

 これは、いまの言い直しをさらに言いなおしたもの。言いなおすことで「石階」がだんだん「比喩」から「現実」に変わっていく。思っている何かに向かって繰り返し繰り返し近づいていくと、それがだんだん「現実」になってくるような感じである。
 そして、そのあとに、詩があらわれる。

そしてもう下界になにも見えないところまでのぼつてくると
空は輝かしい大理石のアーチを大きな翼のように張つている

 空に大理石のアーチ、鳥の翼のように広げられたアーチ。そんなものが現実に「宙」に浮かんでいるはずがない。浮かんでいるはずがないのだが「実感」する。その「感じ」の強さが詩である。
 論理的にはありえない。けれど、「感じ」(感覚)としては、そういうものが存在するように感じられる。
 で、その「感じ」なのだが……。
 「輝かしい大理石のアーチ」と「大きな翼」という二つのことばが「矛盾」しているから、それが「存在」して見える。「輝かしい大理石のアーチがそびえている」だとしたら、「そんなものは宙に存在しない(存在しえない)」と否定できる。けれど「大きな翼」というのは「宙(大空)」にふさわしい。「大きな翼のように」という「比喩」が「大理石のアーチ」という「比喩」を「ほんもの」に変えてしまう。ほんものに変えるだけではなく「輝かしい」ということばで「ほんもの」を強調する。
 ことばが暴走(?)して、嘘をほんとうにしてしまう。

 詩には、こんな力もある。

 ここには、一種の「感覚の論理」のようなものがある。「頭の論理」も「感覚の論理」もあることを繰り返す(言いなおす)ことによって、繰り返すことができるからそれは「ほんもの」であると主張する。繰り返しの積み重ね、少しずつ「進む」という錯覚を利用して、前進できるから「ほんもの」であると偽装する。それがだんだん暴走する。
 詩は(あるいは感覚は)、それを「実証」はしない。ただ「暴走」し、そこに「輝かしい」何か、「熱」を感じさせる。


嵯峨信之全詩集
嵯峨 信之
思潮社