とてもシンプルな映画だ。映像情報が必要最小限しかない。これが、いさぎよい。コメディの極意はシンプルにある。ギャグもブラックなものが多いのだが、軽い。どうせ、嘘、という感じがいいなあ。何回が出てくるおならの音もいいなあ。軽い。おならというのは毎回違った音なのだろうけれど、そういう「事実」は無視。はい、ここでおならの音という単純さがいい。
「おれおれ詐欺」に騙されそうになった元ヤクザの老人が、詐欺集団のちんぴらに復讐する。いくら元やくざといっても老人。できることがかぎられている。かぎられているんだけれど、やってしまう。正義感に燃えて? いや、ただ楽しいから。昔の仲間といっしょにいるのが楽しいから。昔の仲間といっしょだと血が騒ぐ。「日常」なんて、つまらないからねえ。老人だから「正業」がないんだけれど、かといって「ぶらぶら」もできない。昔、大暴れしたことがなつかしい。年を取ったって、何かを楽しみたい。
ああ、そうなんだ。
つまらない「日常」をどう生きるか。蕎麦屋で、入ってくる客が何を喰うか、賭をするなんていいなあ。勝つか負けるか、というよりも、当たるか当たらないか、その半々の感じが楽しいんだねえ。
まあ、そういうところから始まるんだけれど、息子夫婦に邪魔者扱いされていた藤竜也がだんだんいきいきしてくるのがとても楽しい。裸になって背中の竜の入れ墨を見せる。それからズボンも脱いでブリーフ姿で「愛のコリーダ」で披露した逸物の面影(膨らみ)を見せる。あらら。映画を遊んでいる。年寄りなのにがっしりした体をしていて、なかなかかっこいい。そういう自慢げな感じが肌の張りにもあらわれている。肉体がちゃんとアクションしている。こうアクションって、舞台じゃ出せないからねえ。ストーリーやギャグは舞台(芝居/漫才)でも可能なものなんだけれど、映画でないとできないことをきちんと押さえているのがいいなあ。
最後のカーチェイス(バスジャック)もいいなあ。乱暴なことをしているようで、運転はバスの運転手。藤竜也たちは「脅迫」しているだけだから。つまり、アクションはしていない。
アクションは、さっき藤竜也の入れ墨と裸について書いたことと重なるが、藤竜也たちの年取った「肉体」。それをそのまま見せる。それがアクション。近藤正臣なんて、昔は美青年で売っていた。しかし、「敵役」だったりした。なぜなんだろうなあ、というのはこの映画を見るとわかる。いまでも美男子なのかもしれないが、目がどこか陰険。中尾彬なんて、でぶの間抜け。顔に刻まれた表情、肉体の無様さ。それが、そのままアクションとなっている。討ち入り(?)で弾除けにされるなんて、でぶじゃないとできないからなあ。
ビートタケシも、まあ、同じだな。派手な動きはせず、ただ存在している。他の役者の
肉体に合わせて、肉体を動かすのではなく、肉体を存在させるアクションの方へ近づいていっている。
こういうアクションでは、どうしても若手は損をする。動きで勝負できないのだから。その勝負できない感じが、この映画では生きていて、見ていて、チンピラが負けるというのが肉体の存在感そのものでわかってしまう。(コメディだから、結論がわかっているのがいい。)
肉体そのもののアクションという意味で、おもしろかったのが萬田久子。「オカマに間違えられるのよ」という台詞があったが、動かずに座っているだけ(立っているだけ)では、顔の造作がね……って、私の偏見? まあ、いいさ。映画なんて、偏見を楽しむものだから。
(2015年04月29日、ユナイテッドシネマキャナルシティ、スクリーン11)
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