嵯峨信之を読む(51) | 詩はどこにあるか

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嵯峨信之を読む(51)

89 不死鳥

 「続・小品」のことばと通い合うものがある。

不死鳥は
砂と鉱石と小草のあいだから生まれる
深い井戸からたえず水を汲みあげている無一物の男よ
足もとに咲く薊の花を踏みにじれ
悔恨の薊の花を踏みにじれ
そして愛のコロナでおまえの棺を飾れ

 「不死鳥」は「無一物の男」である。「無一物の男」に「不死鳥になれ」と呼びかけている詩だ。
 「不死鳥」は炎の中から生まれ宙を飛ぶ。その姿と「深い井戸」が向き合う。水を汲み上げる姿が「非対称」の「対称」になる。「非」は単純な「対称」よりも強烈に「対称」を意識させる。「非対称」の形で向き合ったものが、それぞれの「直喩」になる感じだ。矛盾しているが、矛盾によって、その存在(あり方)が強烈に輝く。
 こういう「論理の暴力」というのか、「感覚の錯乱の暴力」というのかわからないが、激しい対立の、その「激しさ」を引き受けて、

足もとに咲く薊の花を踏みにじれ

 ということばが生まれる。花を踏みにじる。そう乱暴が「非対称」の「暴力」を突き破るのだ。美しい薊の花は「悔恨の」ということばで、「非対称」になる。「非対称」を「踏みにじる」という動詞の暴力が美しい。
 「おまえ」のなかにある何かを踏みにじれ。殺してしまえ。そうして、その死んだもののなかからおまえは不死鳥として甦れ、そう嵯峨は自分自身を励ましている。

90 ピラミッド

 この詩はなんだろう。私にはわからない。感じるところがない。

ぼくに注意してくれるものも
おなじ流沙の上に立つ
ふたりとも内部に傾くピラミッドを持つているが
諸々の地方の千の川にその影を落している

 「ふたり」というから「ぼく」と「注意してくれるもの(者)」がいるのか。どうも「二人目」の印象が薄い。「傾くピラミッド」という存在もイメージしにくい。ピラミッドは傾きようがない形をしているように私には思える。「内部に傾く」の「内部」が重要なのかもしれないが……。
 「川にその影を落としている」をピラミッドが川面に自分の姿を映していると読めば「傾く」は逆さまに映る(逆像)で映るピラミッドになるが、川面は「外部」であって「内部」ではない。その「矛盾」につまずいてしまう。
 嵯峨が書いている「川」は「内部」の存在なのか。



嵯峨信之全詩集
嵯峨 信之
思潮社