85 蛇・蛭--その他
観念が観念のまま「論理」を語るのではなく、観念がイメージになって動いていく。
その歌はまちがつている
魂の中から蛇を追いださずに
夏の小さな死を追いだした
消えてしまつた女よ
その向うにお前の姿をかくした大きな扉がへばりついて
二匹の蛇が錠前のように固く絡み合つている
「歌」がある。その「歌」は「まちがつている」。なぜなら、「魂のなかから蛇を追いださずに/夏の小さな死を追いだした」というのだが、「蛇」と「死」は具象(生き物)と観念(思考)であり、代替できるものではない。そのために、これだけでは「意味」が追いきれない。
「歌」があり、「魂」がある。その「魂」のなかには「蛇」がいて「死」は存在しない。
そのあとに出てくる「女」は「消えてしまつた」のだから、「死」なのか。「魂」から追い出した「小さな死」、それが「女」なのか。
「蛇」と「女」というと、どうしてもエデンの園を思い出すが、「魂」が「蛇」を追い出さなかったというのは、「欲望」を追い出さなかったということだろうか。「生きる力」を追い出さずに、「欲望の死」を追い出したのか。「欲望の楽しさ」をささやく「歌」は「まちがつている」のに、「まちがい」に気づかずに、「欲望の死/純潔/無垢」を追い出してしまった。最初の「まちがつたいる」は女に対して言っていることばになる。
そうだとしたら「消えてしまつた女」とは、「欲望を刺戟する女/生きる力を刺戟する女」ではなく、蛇にそそのかされる前の女、「欲望を知らない女」ということになるかもしれない。「純潔の女/無垢な女」と言いなおしてもいいかもしれない。
「無垢な女」は扉の向うに消えてしまい、その扉には蛇が錠前のように絡み合っている。「無垢な女」を追い出したというよりも、扉のこちら側に入ってこれないように、内側からカギをかけている。
「固く絡み合つている」「二匹の蛇」とは男と女だろう。「無垢/純潔」の女は消えた。追い出された。魂は「無垢/純潔」の女を拒絶し、欲望の女を受け入れた。二匹の蛇は欲望を生きている。エロチックな幻が欲望を刺戟してくる。「消えてしまつた女」を恋しく思い出しているのではなく、「消えてしまつた女」を、拒絶し、官能を楽しんでいるように読むことができる。欲望を選んだ二人を書いているように思える。
こう読んでくると、問題が二つ残る。
一つは、欲望を生きることは間違っているのか(「その歌」はほんとうに間違っているのか)。蛇にそそのかされるままになっている、「その歌」を実行しているなら、「その歌」は「欲望」にとっては「正しい」歌になる。
もう一つは、なぜ「純潔/無垢」を「死」と呼んだのか。「純潔/無垢」は肯定的な意味で語られることが多い。「死」は逆に否定的な意味で語られることが多い。
「肯定」と「否定」が、それこそ二匹の蛇のように固く絡み合って、「真実」を閉ざすカギになっている。
何が間違いで、何が正しいか。それは、わからないのだ。自分をどこに置くかによって、世界の見え方が瞬間的に入れかわってしまう。わからないまま、ことばが動いている。「わからない」ということが、詩なのだ。「わかる」では、論理になってしまう。
「わからない」けれど、刺戟がある。いろいろなことを考えてしまう。感じてしまう。それが詩なのだ。
女をそそのかしたエデンの園の蛇も「わからない」存在である。いや、部分的には「わかる」が、それがどういう「結果」をもたらすか、「わからない」。どういう「結果」になるから「わからない」けれど、欲望が刺戟されたことは「わかる」。ひとは、どうしても「遠い先にある結果/わからない何か」ではなく、目の前の「わかる」ことにしたがって動いてしまうのものなのだ。
このことは、何も聖書の物語のことだけを指しているのではない。
詩を書くというのは、その「わかる/わからない」の交錯に似ている。インスピレーション。これは、それを受けた人間には「わかる」。そのインスピレーションにしたがってことばを動かしていけば、その結果どういう詩ができるかは、わからない。けれども、いま、急に襲ってきたインスピレーションが「決定的」であることは「わかる」。だから、その「わかる」を手がかりに「わからない」方向へ向かって動きはじめる。
そういうものが詩なのだから、これを「論理」的に「わかる」ものにかえてみても、それは「わかる」ことにはならない。
「わからない」まま、一瞬一瞬を「わかる」。その「間違い」を繰り返すしかない。
死によつてしか生きることができないといつた女が
さいご
ほのぬくい野いちごの赤い実を食べた
そして濡れた唇のまま闇のなかへ消えさつた
「死よって」「生きる」。これは矛盾。でも、「論理的」には矛盾であっても、「感情的」には、こういう表現は「定型」となっている。自分のなかの何かを「生かす」ためには「肉体」としては死ぬしかない。ソクラテスの死は、その典型である。ソクラテスは「感情的」というよりは「論理的」なのだが……。ソクラテスではないふつうのひとは、それを実践できない。また「論理的」にそう感じるというよりも「感情」として、そういうことばに思いを託す。「論理的」に考えると矛盾しているので「わからない」が、その矛盾をことばにしてしまう「激情」、その「激しさ」は「わかる」。わかったからといって、どうすることもできないのだけれど。
こういう、どうにもならないことを、私は「間違い」と呼ぶ。嵯峨の「まちがつている」ということばに刺戟されて、「間違い」と呼びたい気持ちになっている。
そういうことを考えながら、そのめんどうくさいあれこれを瞬間的に忘れて、
ほのぬくい野いちごの赤い実を食べた
この「ほのぬくい」が肉感的でいいなあと思う。はっきりしない、ぬくみ。ほのぬくい裸を連想する。「野いちごの赤い実」は蛇いちご。毒いちご。ほんとうに死ぬかどうか、私は食べて試したことがないので知らないが、毒のぴりぴりした刺戟を思い、何か恍惚としてしまう。次の行に出てくる「濡れた唇」も肉感的だ。
「死ぬことによつてしか生きることができない」という激しい激情(激しすぎて「精神」と勘違いしそう)と肉感的な表現がからみあっている。
激しい精神と感情、論理と肉体が、激しさを利用して、互いの領分を越境して融合する感じだ。「対」を構成するものが、越境し、融合し、化学反応し、別の「対」を生み出し、さらに越境するといえばいいのかもしれない。
そういう激しい運動を見てきたあと(激しいことばの運動を読んできたあと)、
人間の中で時はわけもなく育つが時の中で人間が育つことは難しい
こういう一行に出会うと、
うーん、
とうなってしまう。
その前の行は、
まちがつてぼくのなかにとどまる者の顔をたしかめるように
ぼくは死者の手から灯りを奪つてくる
照らされた顔を見てぼくは驚く
遠いところでぼくを裏切るものが他ならぬこのぼくだつたのだ
人間の中で時はわけもなく育つが時の中で人間が育つことは難しい
書き出しの六行とつないでいいのかどうかわからないけれど、私はつないでしまう。「消えてしまつた」のは「無垢な女/死のように純潔な女」ではない、とどまっているのは「欲望の女」ではない。「ぼく」こそが「ぼく」を裏切ってとどまっている。すべては「ぼく」のせいなのに、ひとはだれでもそれを「他人」のせいにするということか。
この一行を書くために、嵯峨は、どれだけの「時」を必要としたか。どれだけの「行(ことば)」を必要としたか。
2015年04月21日(火曜日)
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