嵯峨信之を読む(43) | 詩はどこにあるか

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嵯峨信之を読む(43)

 『魂の中の死』(1966)を読む。テキストは『嵯峨信之全詩集』(思潮社、2012年4月18日発行)。

81 上総舞子の唄

 最初の章は「広大な国」。巻頭の詩は、「上総舞子の唄」。書き出しは「女はゆくところがなかつた」。しかし、すぐに「ぼく」がでてきて「女」は出て来ない。

ぼくは大声でだれかの名を呼んだ
さだかならぬその名
その余韻はまことにむなしい
それは声になるはずもなく
ただぼくに帰つてくるばかりだ

 「女」は死んでしまったのかもしれない。その女の名を呼んでも返事はかえってこない。そう書いたあとの、次の連が興味深い。

ぼくを試すものがあるなら
一個の燭台をその方へ近づけるだろう
灯りが死者の傍らでみたものを告げるように
年齢(とし)とともにぼくから遠ざかったのはどこの川だ
弱くなった手あしがそれでもぼくを隠しているあいだに
死はたびたび生れかわる
そしてぼくは灯りを消して深く瞼をとじる

 「ぼくを試す」とは「ぼく」の「何」を試すのか。女への愛を試す、ということかもしれない。二行目の「その方」とは死んだ女の方ということだろう。そこに「近づける」という動詞がある。さらにその先に「遠ざかった(遠ざかる)」という動詞がある。この「対比」(対句?)が興味深い。女の方へ近づく。(いまは死んでいるが、生きているときは、まさに「近づく」だろう。)近づけば近づくだけ、ふるさとの川は遠ざかる。女といればいるだけ、ふるさとから遠くなる。そういうことが象徴的に書かれている。
 そして、その「近づく」と「遠ざかる」の「対句」の響きを受けたまま、

死はたびたび生れかわる

 という一行がある。「死」と「生(れる)」の対比がある。女は死ぬ。しかし、その思い出は消えることがない。生きたままぼくに近づいてく。女は遠ざかったが、思い出は近づいてくる。
 「そしてぼくは灯りを消して深く瞼をとじる」という行の「深く」もとても印象が強い。「深くとじる」とはどういうことか。瞼をとじると「闇」が「深くなる」。その深い闇のなかに女はやってくる。
 途中の「弱くなった手あしがそれでもぼくを隠しているあいだに」という一行は複雑で意味が取りにくい。私は、女は死んでいるがぼくは生きている。生きているということが、ぼくを女から引き離している。「ぼくを(女から)隠している」という風に読んだ。死は女からぼくを隠す。ぼくの方は女を幾度も思い出すことができる。そのたびに女は生まれ変わって思い出のなかに生きる。

 この詩の最終連。

ぼくの散り散りになつた魂しいを
拾いあつめようと騒いでいる鴎たち
消えるぼくを最後まで見とどけようとする凍結した港
海霧(ガス)の階段をのぼつてくるのは
死よりもなお青白い太陽
そして鴎たちはその白い墓の方へ吹かれるように舞いのぼつていく

 「たましい」はふつうは「魂」と書く。詩集のタイトルも「魂」をつかっている。ところが、嵯峨はここでは「魂しい」と書いている。(晩年の詩集に出てくるのも「魂しい」である。)「漢字」だけではないもの、「表意文字」からはみだしている何かを書こう問うているのかもしれない。「魂」は結晶のような塊ではなく、しっぽのような何かがついていて、それで動いているということかもしれない。
 この連では、その「魂しい」と最後の「舞いのぼつていく」ということばが印象的だ。「上総舞子の唄」の「舞子」の「舞」が動詞となって、最後に書かれている。この「舞」は「魂しい」の「しい」にあたるものかもしれない。嵯峨からはみだしている(嵯峨の手のとどかない人間になってしまった)女の思い出。それが、嵯峨の魂をいまも動かしている。
 切ない恋の歌だ。
嵯峨信之全詩集
嵯峨 信之
思潮社