先日見たアラン・レネ監督「愛して飲んで歌って」(★)の冒頭、それにつづく道路を車が走っていくシーン(車は映らない)にも驚いたが、この映画の冒頭のシーンにも驚いた。主人公が何かをしている。その何かがわからない。そういうことはよくあることだが、異様なのは「何が」をスクリーンの中心に映し出さないこと。左下の方で主人公の顔と手の動きが見える。何かに触れている。左下四分の一(以下かもしれない)で、そういう描写があり、ほかは漠然とした空間。映画は主人公が何をしているかを明確な映像にして見せるもの、と私は思っているので、これはとても変な感じがする。私がこれまで見た映画では、主人公はあくまでスクリーンの中心にいた。アップ過ぎて何をしているかわからない映像は、中心を固定してそのままロングに引いて行くことで全体がわかる、何をしているかがわかるという表現形式をとっていたが、この映画はアップを左下に、何かが欠落した状態で描きはじめるので、とても異様な感じがするのだ。映画文法(映像文法)を踏み外して映画がはじまるのだ。
やがて主人公はほかの修道女といっしょにキリスト(?)の像の汚れ(ほこり)をはらっていたことがわかる。その像をきれいにしたあと、庭に設置し直すのだが、そういうときの全景のシーンも何か奇妙。人物の占める位置が不安定。スクリーンの中心を占めない。世界の端っこにいる感じがする。あるいは世界の下の方にいる感じがする。
これが最後の最後でがらりとかわる。主人公は修道女(見習い?)の姿で道を歩いている。車が行き交う道だから彼女が歩いているのは端っこだろう。けれど、その姿をカメラは真ん中にすえて撮りつづける。胸から上、顔のアップなので、主人公と道の位置の関係がわからない。彼女が道の真ん中を歩いていて、車は端っこを走っていくという感じになってしまう。そういうことは現実にはないのだが、映画のなかでは主人公が「真ん中」を堂々と歩いている。
主人公はどこへ行くのか。修道女の姿をしているから修道院へ戻るのか。それとも外出用の服がそれしかないので、それを着ているだけなのか。いろいろ想像できるが、明確なことはわからない。わかるのは、彼女が何事かを決めた、ということだけである。自分の進む道をはっきりと見極めた、だから迷わない、そういうことがわかる。世界の中心に彼女がいるということだけがわかる。それは彼女の決断なのだ。決断が、彼女を「主人公」にしたのだ。
ここから映画を振り返ると、そこに描かれていたことがより鮮明にわかる。
映画は、主人公が修道女になる前に叔母に会って、自分がどういう人間なのかを確認する過程を描いている。彼女は主人公だけれど、何もしない主人公である。何も知らない少女である。修道女として宗教に生きるかどうかも、まだ決断していない。その彼女が、叔母に会って、自分がユダヤ人であることを知る。そして、自分が生まれ育った街を尋ねる。ひとに両親のことを聞く。そういうことを繰り返していくうちに、叔母にはつらい過去があることがわかる。叔母は戦争中、少女の両親(母親が姉)に自分の息子をあずけた。その息子は少女の両親とともに、ポーランド人によって殺害された。なぜ少女は生き残り、叔母の息子は殺されたのか。その経緯は、わからない。(映画のなかできちんと描かれていたのかもしれないが、ぼんやりして、見落としてしまった。)もしかしたら、叔母の息子は生き残り、少女が死んでいたという「歴史」があったかもしれない。少女は、思いがけない形でストーリーの「中心」にひっぱり出される。彼女がいなければ起きなかったかもしれないことが、過去に起きたのだ。
叔母は、何も知らない少女に、両親の悲劇を語り、真実を知らせる。遺体の埋められている場所(墓地ではない)を探し、それにかかわったポーランド人をたずねるという形をとって、少女の悲しい歴史を明らかにしてゆく。そうすると、そこにどうしても殺された息子が深くかかわってくる。主人公が少女から叔母自身にかわってしまう。叔母の苦悩が深くなる。どうして息子が殺されたのか、どうして守ることができなかったのかと、叔母は少女を見ながら苦悩している。少女の驚きや苦悩、悲しみに配慮する余裕がなくなる。だから酒に逃げたりもする。息子が虐殺され、遺体が埋められた場所がわかると、そこで叔母の苦悩のひとつは解消する(息子をちゃんと葬ることができる)。けれど、そうやって「事実」を明確にすると、それまで叔母を支えていた「生きる執念」のようなものが消えてしまう。叔母は自殺してしまう。
残された少女は、そのとき、誰なのか。ユダヤ人の悲劇を知ってしまった少女は、単なる修道女の見習いではない。叔母の悲しみと苦悩、絶望を知ってしまった少女は、もう少女ではない。叔母そのものだ。少女は、叔母のドレスを身に着け、ハイヒールを履いてみる。叔母になってみる。叔母の、世界との向き合い方を肉体で真似してみる。そういう「姿」を真似なくても、ユダヤ人の歴史を知ることで、少女は叔母になってしまっているかもしれないが、「確信」があるわけではない。世界の端っこから急に「主人公/ユダヤ人の悲劇」にひっぱり出されて、どうしていいかわからないのである。「肉体」の手応えがない。だからこそ、ベールを脱いでジャズのサックス奏者とセックスもする。自分の存在を確認するには「肉体」が絶対必要なのだ。そのあと、彼からいっしょに行かないか、という誘いも受ける。それは少女がいままで知らなかった「世界」であり、同時に叔母が体験してきた世界である。少女が最初に叔母と会うとき、叔母の家には男がいて、セックスをした後らしいことが描かれている。そのときの男と女の関係は愛なのか、どうか。悲しみを忘れるためのセックスだったかもしれない。少女にとっても、それは疑問だ。自分の見てきたものが、何か大きく崩壊していく。どうやって自分を支えていいのかわからない。何をしていいか、わからない。その不安のなかで、そばにいた男にすがったのである。
冒頭にもどって考える。主人公はキリストの像を磨いている。なぜ、そうするのか。なぜ、キリストなのか。真剣に苦悩し、考え抜き、答えを出す前に、そこにキリストの像があった。修道院があった。それはセックスをしたサックス奏者とかわりがない。かわりがないからこそ、主人公は「決断」しなくてはならない。誰と生きるべきなのか。そして「決断」したのだ。自分を「世界」の中心に置いて、世界を歩いていくということを選んだのだ。「主人公」になったのだ。誰と生きるにしろ、少女がついていくのではなく、少女が引っぱって行くのだ。
どんな映画も「主人公」の成長(変化)を描くものである。この映画もそういう変化を描いているのだが、おもしろいのは主人公は最初から主人公なのではなく、自分が「主人公である」と発見するまでを描いている点である。そしてその変化をスクリーンにおける主人公の「位置」と緊密に重ね合わせている点である。
(KBCシネマ1、2015年03月28日)
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