破棄された詩のための注釈(20)  | 詩はどこにあるか

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破棄された詩のための注釈(20) 

「肖像画」を定義して「修正された線」という比喩から書きはじめている。修正することで人工的な空間をつくりたかったのである。感情はこころにあるのではない。人間の内部にあるのではない。「空間(その場)」にある何かと結びつき、断言に変わるとき、感情はつくり出される。

「肖像画」をしばらくみつめて、それから突然気づいたように、語りはじめる。最初からわかっていた。わかっていたことを印象づけるために、間を置いたのである。間を置いたあと、一連目のことばを二連目で反芻することで「物語」へと、ことばをずらしていく。「修正された線」には、すでに「物語(その時間)」が存在している。

三連目。比喩を消して読み直すと、テーブルと椅子と、テーブルの上の瓶とグラスが残る。女はグラスを左手でもち、右手の布巾でテーブルを拭いている。犬は部屋の隅から、上目づかいでその様子を見ている。

「肖像画」ではない。「絵」のなかの「顔」だけを取り出している。「修正された」のは「構図」の方である。人工的な時間をつくりたかったのである。悲劇は関係のなかにあるのであって、個人の内部にはない。「時間(物語)」をつくりだしてしまう論理は語られてしまっているがゆえに、すべて剽窃である。