草野早苗「星降る」、江夏名枝「赤城神社マルシェ」 | 詩はどこにあるか

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草野早苗「星降る」、江夏名枝「赤城神社マルシェ」(「交野が原」78、2015年04月01日発行)

 草野早苗「星降る」はインドを旅行したときのことが書いてあるのだろう。ラクダが出てくる。書かれていないが砂も出てくる(と思って読んでいる)。ホテルに帰って、

首筋や髪やひかがみにくっついてきた
父や母や祖父や祖母を
わずかな水でていねいに洗濯し
遠くまでロープを渡して
木製の洗濯ばさみで留めてゆく
(金属は錆びるし、プラスチックはすぐに劣化する)

 首筋や髪についてきたのは、砂ぼこりかもしれないし、インドで見た風景そのものかもしれない。それは「父や母や祖父や祖母を」を思い出させる。つまり「いのち」の連続を思い出させる。「いのち」がどこまでもつながっていく土地がインド。そういう「哲学/思想(?)」と、洗濯をするという「日常(旅のなかの日常)」が重なり、さらに洗濯ものを干すロープは浴室を越えて、日本での洗濯の日常にまでつながっていく。「日常」がずるずるとつながり、「いま/ここ」がインドでありながら「日本」にもなってしまう。それが、とてもおもしろい。
 洗濯ばさみは「金属は錆びるし、プラスチックはすぐに劣化する」。日本にいて、洗濯が毎日の仕事ならそういうことは重要だが、旅先では洗濯ばさみの材質なんて問題ではない。ホテルにあるものをつかうだけだ。毎日、それをつかうわけではないのだから。でも、日本での「日常」を思い出し、旅先でも洗濯ばさみの材質を気にかけてしまう。そして、たぶん、母か祖母から聴いた洗濯ばさみへのぐち(?)を思い出して、それをくりかえしてしまう。そのとき草野は草野なのか、母なのか、祖母なのか。だれでもない「日本の女性/洗濯をする人間」の「いのち」になっている。
 洗濯をしたから、そうなったのか。それだけではないだろう。どこかにインドへ来て、インドで体験したことが、いま思い出す必要のないことを思い出させているのだと思う。「いのち」がどこまでもつながっていくインドだから、草野は草野自身のなかにある「いのちのつながり」に揺さぶられているのだ。
 そのあと駱駝を思い出し、駱駝を句(?)を書いて……、

急に立ち上がった駱駝が
右前脚と右後ろ脚を同時に
左前脚と左後ろ脚を同時に出す歩き方をするものだから
ひとこぶがフニフニと揺れ

 あ、ここがいいなあ。
 「いのちのつながり」などというちょっと面倒くさいことを書いてしまったが、そういう面倒を吹っ飛ばしてしまう「現実」。ふつう動物は(人間は)歩くとき、前右足(人間なら右手)と左前足が同時に出る。そうやってバランスをとっている。緊張すると(人間の場合)、右手と右足がいっしょに出たりする。(子どもの行進だね。)そうすると、からだのバランスがおかしくなって、揺れる。駱駝もそうなのだ。私は駱駝に乗ったことはないが、乗っていればとても揺れるだろう。「ひとこぶがフニフニと揺れ」は「事実」なのである。その「事実」を「肉体」で直接感じている。
 そして、そういう「事実」、草野にはどうすることもできない「他者(駱駝)」の事実が、草野の考えていたことを揺さぶる。「いのちのつながり」と私が仮に呼んだ「哲学」が揺さぶられる。そんなものを考えるよりも、駱駝の歩き方とこぶの揺れ方の方が大事である。うっかりすると落ちてしまうから。
 で、懸命に駱駝にしがみつく。

ロープで止められた父や母や祖父や祖母が
ソヨソヨとそよぐ
私もさびしくなって
ロープで懸垂しながら
ソヨソヨソヨとそよぐ
星降る

 あるいは洗濯物を干していて、それが風にそよぐのを見たとき、駱駝の背で揺られたことを思い出したのかもしれない。現実の、生きている「いのち」にからだごと揺すられ、観念ではなく肉体そのものが、そこに「ある」という事実に揺さぶられたということなのかもしれない。
 草野にはどうすることもできない(草野の意思では制御できない)何か、たとえば駱駝の歩き方のようなものが、「絶対」的存在として草野の「思考」をたたきこわす。つるされた洗濯物のように、揺すられてしまう。「揺れる」その肉体、「揺れる(明確に思想として言語かできない)」その思い。
 そういう「何か」があるとき、そういう草野の「何か」とは無関係に、空には星。星が降っている。非情だなあ。非情だから、美しい、としか言いようがない。それを発見する。
 「それを」と書いたが……。「それ」とは何か。星か。違うなあ。「駱駝の揺れ」か。両親や祖父母との「つながり」のことか。言い換えると「いのち」のことか。違うなあ。違うけれど、それだなあ。あるときは両親や、祖父母。あるときは洗濯物/洗濯ばさみ。あるときは駱駝(の歩き方と、こぶの揺れの関係)。それが、瞬間瞬間にあらわれてくることが、この「世界」なのだ。ひとつに「固定できない」。
 駱駝の歩き方とこぶの揺れがいちばんていねいに書かれている。脚の動きとこぶの揺れが連動している。「関係している」。たぶん、その「関係」のようなものが、すべての「事実」の出発点なのだろうなあ。そこにあるのは「もの/こと」ではなく「関係」。それは草野と駱駝、草野と両親・祖父母、草野とインドという具合に「二者」のあいだの「関係」だけではなく、「駱駝」という「ひとつの肉体」のなかにもある「関係」なのだ。世界は、きっと駱駝の歩き方と揺れのように「ひとつの肉体」のなかの「関係」なのだ。その「ひとつの肉体」のなかにある「関係」が、遠い空の星を見た瞬間、強烈な「孤独(さびしさ)」となって、そこに出現する。「星降る」という短いことばで。ほかに補うことのできない「真実」として。

 私は私のことばがうまく動かないので、長々と書いてしまうが、これでは草野の詩を壊してしまうことになる。ただ草野の詩の全行を引用し、駱駝の三行と「星降る」の一行が強くつながっている。その強さが詩だ、と言えばよかったのかもしれない。
 (書いてしまったことは、私は書き直さない。書くことで、そういうことばにたどりついたのだから。)



 江夏名枝「赤城神社マルシェ」はタイトルの「マルシェ」が気に入らない。市場? 蚤の市? 露店? まあ、そういう「日本語」がごっちゃになった「場」を指しているのだろうけれど、外国語(フランス語?)を持ち出すなんて、めんどうくさいなあ、と思う。日本語で書いてよ、日本語の詩なのだから、と思いながら読む。

鳥居をくぐる 晴れた休日のマルシェ
生姜のシロップ漬 チョークで手書きの看板
真冬の肌荒れには枇杷葉のオイル
足の向くまま もとめるひと

ビスケットがひとの手に渡るのを見ていると
わたしは何をはぐらかせてきたのか、
コートのボタンを指でつまんだ

なにも欲しくなくなった もう欲しくない
もうずっと ここへ来る前から
なにも欲しくない

 一連目はことばが多くて、うるさい。めんどうくさい。けれど、二連目がいい。「ビスケット」が簡単だし、「手に渡る」という動きが簡単だ。ビスケットがひとの手に渡るとき、何かが江夏の「肉体」にも手渡され、それを受け止めたのだ。それは「わたしは何をはぐらかせてきたのか、」というあいまいな表現でしか書かれていないが、あいまいだから、それを知りたいという気持ちになり、そういう気持ちになったとき、それが何かわからないまま、私もやはり「何か」を手渡されたのだと気づく。「手に渡る/手渡す」という「動詞」が「何か」を私の「肉体」のなかにつくりだす。
 それは「わたしは何をはぐらかせてきたのか、」の最後の読点「、」のような呼吸かもしれない。この詩のなかで、読点「、」は一回だけ書かれるのだが、その「、」の呼吸のようなものが、「肉体」を強く刺戟する。江夏の「肉体」を直接見ている、あるいは江夏の「肉体」になってしまって、その「、」の呼吸、その断絶をはさんだあと「コートのボタンを指でつまんだ」と肉体が動くとの持続(連続)が、あ、こういう瞬間は「肉体」にあるぞ、そういうことおぼえているぞ、と感じさせる。自分で自分をごまかして(はぐらかせて)いたとたに気がつき、はっと、別なことをしはじめる。そういうことが、「肉体」そのものの記憶として、からだの奥からあらわれてくる。
 何かわからないが、たしかに、ある。
 その「肉体」が、三連目「なにも欲しくなくなった」とという気持ちの変化にかわるのも、とてもおもしろい。「肉体」で感じた何かが、欲望(気持ち)を変えていく。何かが欲しくてきたわけではない。欲しいものがないことは知っていた。その知っていたことを、思い出し、それが「なにも欲しくなくなった」に変わる。
 「肉体」が動いている、「肉体」のなかで感情が動いているのが、映画のアップを見るようにつたわってくる。

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