「唇」ということばがあった。「少し歪んだ」ということばがあった。「唇は少し歪んだ」と書くことも、「少し歪んだ唇」と書くこともできた。その通りのウィンドウをちらりと見たとき、その「ことばになりきれない唇」をみつけたのだった。詩人よりも前にそこを通りすぎただれかがウィンドウのなかに隠したものなのだが、それをウィンドウのなかから取り出してきて顔の上におけば、きっと「きょう」こそ「欲望」が実現するだろうと思った。「舌が動き、そこから欲望が誘い出される。」
「欲望は彼にとっては抽象的だった。」空白を三行挟んだあとの、二連目の書き出しの一行は、もし詩が発表されていたならば誹謗、侮蔑の対象になったかもしれない。安易な読者は、ことばと事実を取り違える。自分の知っている事実をことばに押しつける。けれど、その一行は違う「意味」なのである。
「欲望」ということばは一般的に「死」とは同義ではないが、彼にとっては「同じ関係」からあらわれてくることばである。つまり、この一行は「死は彼にとっては抽象的だった。」と書き換えることができる「比喩」なのだ。「一度も経験していない」。だから「死」と同じように抽象的。それがあることは知っている。知っているけれど、一度も経験していない。だから「抽象」と呼ばれる。
このわかりにくい注釈は、その詩が破棄された時に書かれていたメモからの引用したものである。
「過去」とは思い出すたびに変わってしまうものであり、それは「未来」よりも不確定な時間である。詩人はウィンドウを通りすぎなかった。あの界隈へは行かなかった。かわりにウィンドウのなかで、長い間、「唇」に「唇」を重ね合わせていた。あまりに長い時間、重ね合わせていたので、二つの影はまったく別なものになってしまった。似通ったところを互いに消しあい、それから忘れようとした。
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