嵯峨信之を読む(41) | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

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78 人間の仔

 嵯峨の詩は抒情的で美しいものが多いが、ときどき果てしなく暗いものもある。この詩は、とても暗い。「わたし」のなかにある「罪」、罪を生きる「わたし」。罪のために絞首刑になる。その綱を用意したのは母だ。そう、書いている。

時が熟してわたしがこの世に生まれでたとき
母は何故に夜を通してひと知れずすすり泣いたのか
わたしは今日までそのわけを一途にさがし求めて歩いてきた
そしてそれがわたしのなかにあることにやつと気がついたのだ

わたしは階段を一段一段しつかりした足どりでのぼつていく
そして垂れさがる綱をしずかに首に当てる
しかもその綱が母の手で用意されていたのを知つて
わたしは頷いて笑うことができる
その笑いにわたしはようやくいまたどりついたのだ

 「わたし」がどんな罪を犯したのか。そのことは具体的には書かれていない。しかし、それが「わたし」の誕生と同時に「わたしのなかにある」。そうなれば、それは誕生と密接な関係にある性行為、性の欲望/衝動というものかもしれない。
 それは「罪」かもしれないが、喜びでもある。喜びだから「罪」なのかもしれない。

わたしは頷いて笑うことができる

 「頷いて」が重要なのだと思う。「頷いて」は「肯定して」という意味である。すべては「母」が用意している。それは「母」もまた「性」を生きているからである。母が性行為をしなかったら、「わたし」は生まれていない。性を知ることで、嵯峨は、いのちが人と人をつないでいるということを実感する。この実感が「頷く」であり、その納得が「笑い」である。「笑い/笑う」は「受け入れる」でもある。
 ここから、ほんとうの「誕生」が始まる。

 そういうことを思いながら、書き出し、第一連目を読むと、なぜ「拳銃」なのだろう、なぜ「サック」なのだろうという疑問が、不思議な感じで、溶解していく。

拳銃のサツクをとりはずしてそこに置くように
それまでのわたしをすつぽり脱いで
いさぎよくわたし自身の前に立つ
もうこの世に怖ろしいものは何もない

 拳銃はペニスである。拳銃を拳銃のケース(サック)から取り出すように、ペニスを取り出す。着ている衣服、下着を「すつぽり脱いで」、生まれたままの「わたし自身」になる。そうして愛する人と向き合う。その瞬間、「怖ろしいものは何もない」。愛があるからである。
 性は、ある宗教では罪(悪)である。性にふけることは罪である。しかし、その罪をとおって、いのちはつながり、いのちは生まれる。罪をおかさないことには、いのちはつながらない。
 母が用意したのは絞首刑の綱ではなく、罪そのものを用意したのだ。罪そのものを、子に引き渡したのだ。
 それを了解する。それが「笑い」だ。

神よ みそなわせ給え

 祈りで、詩は閉じられる。

79 白夜の大陸

 この詩は、どこかで「人間の仔」とつながっている。つづけて読むからそう感じるだけなのかもしれないが……。
 たとえば、

もつもと必要なものは
わたしの魂から外側へながながと垂れさがつている一条の綱だ

 この「一条の綱」は絞首刑の「綱」にも見える。絞首刑の綱は母が用意したもの。その綱としっかりつながるときに、「わたし」は「わたし」になる。「いのち」になる。だから、その綱は「母が用意したもの」であると同時に、「わたしが用意したもの」でもある。「わたし」がいなければ、その綱は存在しないのだから。同じように、「わたしの魂」から垂れ下がる綱は「わたし」がいなければ存在しない。

その細長い綱をするすると伝わつて
血の沿海州に下りたつことができたら
わたしはそこに見るに値するもの見るだろう

 「見るに値するもの」とは「罪」のことである。人間の「生存」そのもののことである。比喩を挟んで、その比喩を嵯峨は言いなおしている。

あくまで人間の原型を固執しようとしているのを見るだろう

 「人間の仔」は「人間の原型」と言いなおされている。性によって生まれてくる人間。そういういのちのつながり方が「原型」である。「原型」と呼んでしまうと、それは動かない固定したもののように見えるが、これは「固定したもの」ではなく、様々に動きながらも、その動きの全体、「いのちの運動」そのものである。
 だから、次のようにも言いなおされる。

またわたしの背後をとざしている暗い海を
くるりくるりと泳いでいる一頭の海豚(いるか)が
じつはみごとに姙(みごも)つたわたしの妻であるのに気づくだろう

 「いのちの運動」「いのちのつながり」であるからこそ、妊娠した妻が出てくる。
 嵯峨はなんとかして、性を詩にしようとしているのだ。それは最終行、

きまつたようにわたしは深いオルガスムスに落ちていくのである

 と「オルガスムス」ということばが出てくることからもわかる。
 「性」が「いのちの運動/いのちのつながり」であると認識しながら、その周辺に「罪」に通じる暗いイメージ(「暗い海」と、「暗い」そのものが直接でてきている部分もある)と向き合っているのは、「神」と向き合わせる形で「性」を考えているからだろうか。




小詩無辺
嵯峨 信之
詩学社