「火喰鳥」というのは、ダチョウのように飛べない鳥。ダチョウより小さい。嵯峨は、その鳥をどこで見たのだろう。直接見たことはなく、映像で見たのだろうか。日本にはいない鳥である。
中庭をぐるぐる廻つている火喰鳥を
羽根をすつかり毟りとられて裸になつている火喰鳥を
その薄桃いろの大きな火喰鳥を
ごむのように伸びあがり曲がりくねつて餌を拾う火喰鳥を
(注・「毟りとられ」の「むしる」は原文では手ヘンがある。)
何度も「火喰鳥を」を繰り返している。ひとことでは言い表せないほど、その姿に驚いたのだ。だから、これは形としては「繰り返し」になっているが、ほんとうはそうではない。そのつど、新しく「あらわれている」のである。描写するたびに、あたらしく「火喰鳥」は嵯峨の目の前にあらわれてくる。
そうやって何度も何度もあらわれてくる「火喰鳥」を見ていると、嵯峨に変化が起きる。
ただうろうろと滑稽に生きている火喰鳥を
ああその火喰鳥を
その火喰鳥を笑いとばす小賢しき俺を消してくれ
これは、どういうことなのだろう。
「火喰鳥を笑いとばす小賢しき俺を消してくれ」の「消してくれ」は何を消してくれと言っているのか。文法的には「俺を」ということになるが、繰り返し「火喰鳥を」という行を読んできた後なので、「火喰鳥」を消してくれ、と書いているようにも思える。「火喰鳥」と「俺」が「一体」になっているように感じる。
だから、次の行で
しかと俺の眼に触れるところで消してくれ
と「消してくれ」の「目的語」が省略されたまま言いなおされるとき、それを「火喰鳥を」消してくれと読んでしまう。そう読むことで、さらに「俺」と「火喰鳥「が「一体」になる。だから、俺の眼に触れるところで、俺を、火喰鳥と一体になってしまった俺を消してくれ、と書いているようにも見える。
うーん、何だか、「意味」が混乱するのだけれど、こういう混乱の体験が詩なのだ。たしかなものは何もない。何もないのだけれど、そこには何かがある。
ここから、嵯峨は、強引にことばを動かしている。
それから始めてゆるやかに廻してくれ
俺の手のとどかない「時」の大きな重い軸を
これは何だろう。わからない。嵯峨にもわからないことかもしれない。わからないまま、ことばをつかって、「思い/思考」をつくり出そうとしている。書くことで、それまで存在しなかった何かをあらわそうとしている。(最後の行の「時」は「詩」を感じさせるが、はっきりとはわからない。)
この「強引さ」のなかに「現代詩」を感じる。
私が、嵯峨の詩を読みきれていないというだけのことなのかもしれないが。
77 骨
なにもすることがないので
ぼくはぼくの頭蓋骨をとりはずしてみた
するとぼくはまつたく悲しくなつた
これは「現実」を再現することばではない。現実には、こういうことはできない。
そうすると、これは「でたらめ」なのか。
そうとも簡単には言えない。
ことばには、こういう「不可能」を「可能」にしてしまうことがある。ことばを動かして、ありえないものを考える。そのとき、それはことばといっしょに「生まれている」。ことばが「想像」をつくりだしている。「思念」をつくりだしている。
こういうことばの運動が、「現代詩」ではよくある。
ここに動いているのは、一種の「非常識」と言えるものだが、それを「悲しくなつた」ということばで、読者の知っている(知っているつもりになっている)感情へ引き寄せる。そこに嵯峨の詩の特徴があるかもしれない。
「悲しみ」は、人間のだれもが知っている感情である。「悲しい」を説明しろといわれると、定義がむずかしいが、それは知りすぎているから逆に定義できないのだ。
でも、嵯峨の感じている「悲しくなつた」は、私たちが感じている「悲しい」とはまったく違っている。だから、嵯峨は言いなおすことができる。
ぼくは慌ててまた頭蓋骨を嵌めてしまつた
かたりとにぶい音がして
もとのところに嵌まることは嵌まつたが
それからぼくはその異様な音を忘れることができない
「かたりとにぶい音」。そして、その「音」とともにもとに戻ること。それは「悲しい」とどこかで通じている。頭蓋骨をもとにもどすことで「悲しくなつた」ぼくは「悲しくなくなる」とは言えない。その「音」を忘れられないように、あのときの「悲しい」も忘れることができなくなる。
嵯峨は、ここでは、そういう「感情」をことばでつくりだしているのである。
詩は感情を説明(描写)するのではなく、感情をつくりだしていくものなのだ。
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