嵯峨信之を読む(38) | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

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72 酷薄なる王者

 死と時は嵯峨のことばのなかでは緊密な関係にある。

時は
手当たりしだいに人間がつくつたものだ

 この印象的な二行は、

いたるところに蔓延(はびこ)る孤児(みなしご)だ

 とつづくとき、「孤児」は「時」の比喩のように読むことができるが、「孤児」は「戦災孤児」かもしれない。戦争によって人間がつくりだした「孤児」という印象が頭をかすめる。
 その印象をかかえたまま、詩は

酷薄なる王者よ
またしても死を引きぬいたのか

 と動くとき、「戦災」という「人為」が消えて、もっと大きな「人間の運命(宿命)」のようなものが迫ってくる。「王者」ということばが、「人為」を「神話」に変えてしまうのかもしれない。
 「時」のなかでひとは死んでいく。そのとき残されるひとがいる。「孤児」が生まれる。それはかならずしも「幼児」とはかぎらないだろう。
 でも、そうすると

時は
手当たりしだいに人間がつくつたものだ

 最初の印象的な二行はどうなるのだろう。「人間がつくつた」とはどういう「意味」になるのだろう。

そして一日一日鈍い音をたてて
遮断機が下ろされる
たれのしわさがたれも知らない

 「人間がつくつた」は「一日」という「区切り」のようにも感じられる。それはだれが決めた(つくった)区切りなのか。わからないが、その区切りがあるために、時が過ぎ去り、時が過ぎるにしたがって死が近づいてくる。その過ぎ去り、また押し寄せてくる時、その絶え間ない「時」の氾濫は、たしかに「手あたりしだいに」つくったもののようにも思える。
 嵯峨が何を書こうとしたのか、私にはよくわからないが、その

手あたりしだいに

 ということばと「人間」ということばが結びつくとき、何か不思議な感じに襲われる。「運命」に対して、無防備のまま立ち向かっているときの、その「無防備」の真剣さのようなものを感じる。

73 死の唄

ふいに死がやつてきて最後の孤独を手渡す

 書き出しの「孤独」は、「酷薄なる王者」に出てくる「孤児」を連想させる。両親が死んだとき、子供は孤独な孤児になる。一方で、死んでしまった親もまた子供から切り離され、世界から切り離され孤独になる。
 死によって、死んでゆくものと残されたものが「孤独」で結びつく。
 そういうことを嵯峨は感じているのだろうか。

深い沈黙のうえに星は消えてしまう

 この「沈黙」は「孤独」を言いかえたもののように思える。

もうたれのでもなくなつた時間が死者からたちのぼる

 この「時間」は「沈黙」とも「孤独」とも読むことができる。
 冒頭の三行で「孤独」「沈黙」「時間」とことばが変化するが、それは「共通感覚」でつながっている。同じ未分節のところから、「孤独」「沈黙」「時間」ということばに分節されて出てきているが、そのときの「出方(あらわれ方)」が同じ。

実在のなかに姿をかくしていたものが
いま現われてたれからも遠くへたちさる

 「実在のなかに姿をかくしていたもの」とは「死」であり、その「死」はまた「孤独」「沈黙」「時間」でもある。それが「いま」「現われ」た。
 「実在のなかに姿をかくしていたもの」の「かくしていた」は「未分節」ということ。「混沌/無」ということ。
 それがいま、「孤独」「沈黙」「時間」と呼ばれ、さらに「死」と呼ばれて、詩として書かれている。
 「死」が「いま現われてたれからも遠くへたちさる」というのは、「実在(たとえば人間)」内部に隠れていた「死」が「死」というものとして表に出てきて、「死」そのものになり(他人にもみえるもの/隠れていないものになって)、それから去っていくということだろう。これは「酷薄なる王者」の「またしても死を引きぬいたのか」にも通じる。人間のなかに隠れて存在していた「死」が引き抜かれて表に出てきて、「死」そのものになる。「死」は人間の「外部」からやってくるのではく、あくまで内部から表に出てくるものなのだ。
 哲学的で抽象的な詩だ。
 この抽象を嵯峨は次の一行で美しいイメージにする。

夕ぐれ白樺の幹からそつと泉へ消えていくものと同じものが

 昼の光に照らされていた白樺の幹の白い色。それが夕暮れに消えていく。空中へ消えていくのではなく「泉へ」消えていく。この「泉」がいいなあ。センチメンタルといえばセンチメンタルなのかもしれないが、情景が広がる。空中へ消えていくでは半分抽象のまま、「象徴」あるいは「比喩」になってしまう。
 「泉」が登場しても、消えていく白樺の白は「象徴」「比喩」なのだが、「泉」によって「もの」としても存在することになる。「関係」が「白樺」と「泉」を「もの」として存在させるのだ。
 そのとき「死」も「もの」になる。

ああ 自分からなにか去つていくのを感じるのは
なんという怖ろしいことだろう

 「孤独」が「沈黙」が「時間」が去っていく。「死」さえも去っていく。それが死だ。
 「死」が去っていくのが死であるというのは「矛盾」に聞こえるが、「死についての考え」「死について思うこと」が人間から去っていく、そういうことを考えることもできなくなるというふうに考えると、死が去ってこそ死なのだと考えざるを得ない。
 嵯峨は最後に「なんと怖ろしいことだ」と書いているが、この詩を読むと、たとえば白樺の一行を読み、「最後の孤独を手渡す」「深い沈黙のうえに星は消えてしまう」というような行を思い出すと、それは「美しい」ものにも感じられる。
 詩は、恐怖を裏切るものかもしれない。
嵯峨信之詩集 (現代詩文庫)
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思潮社