「人間の仔」という章の最初の作品。「見知らぬ時間」とは「死」のことを指している。
ぼくは死に触れてみようとした
それは少し早すぎてまだ何の形もなしていない 小さな無数の時が
水田の底の蝌蚪(おたまじゃくし)のようにむらがり動いている
冒頭の三行。「蝌蚪」の「比喩」が興味深い。「何の形もなしていない」と嵯峨は書いているが、おたまじゃくしはおたまじゃくしの形をしている。おたまじゃくしの前の蛙の卵も蛙の卵の形をしている。「屁理屈」といわれるかもしれないが、そこには形はある。しかし、嵯峨は、その「形」を「形をなしていない」と呼んでいる。それは、嵯峨には何かことばにできないけれど「別の形」が見えているからである。おたまじゃくしは蛙になる。そう知っている人間だけが、おたまじゃくしを見て、まだ「形(蛙というほんとうの形)」になっていないと言える。嵯峨が「死」をどんな「形」ととらえているかはっきりとはわからないが、何かある「形」を想定していることだけはわかる。
もうひとつ、嵯峨は「死」を「小さな無数の時」とは反対(?)の、「大きな一個の絶対的な時」と感じていると、想像することもできる。「死」に触れようとした。けれど、嵯峨は「死」に触れることができずに「小さな無数の時」を見つけ出しただけと書いているだから、「死」はきっと、それとは反対のもの、そこに表現されているものとは別のものとして存在している、そう想定されていると読むことができる。
でも、それはどんな「時」?
想像するのがなかなかむずかしい。想像しようとすると、逆におたまじゃくしの「むらがり」が目に浮かんでしまう。「形もなしていない」ということばにひっぱられて、私はおたまじゃくし以前、蛙の卵さえ想像してしまう。
ぼくは知るかぎりの時間を考えた
文字盤の数字のあらゆる組み合わせに思いふけつた
「時」と「時間」が嵯峨の意識のなかで、どんな風に区別されているのか、わからない。「文字盤の数字」というのは「時間」なのだろうか。「時」なのだろうか。その「組み合わせ」とは何だろうか。それこそ「何の形もなしていない」抽象のように思える。この「抽象」が「おたまじゃくし」の「むらがり」なのか。
「抽象的」なことばは、さらにつづく。
真夜中になつて
ぼくは頭蓋のなかから ぜんまいだの 心棒だの 止めがねの類(たぐい)をとりはずしてみた
すつかり空つぽになつた頭蓋の底に
うじやうじやと動いている無数の時は
それは蛆虫の世界の時間で
小さな崩壊からはじまる時間だということがわかつたのだ
「時間」を「時計」に置き換えて、時計を分解している。「頭蓋のなかで」、つまり頭のなか、空想で分解している。指し示す「時間」を失った「時計」という構造物の底に「無数の時」が「うじやうじや」と動いている。「時間」として指し示すことのでないものが、「時間」として指し示されなかったものが、動いている、ということだろうか。
明確な形(何時何分と言えるようなもの、言うことで他人と共有できるもの)が「死」の対極にある「生」。そう考えているのだろうか。たとえば「歴史」、歴史として記録される行動(形としてとり出すことができる生き方)が「生」である、のか。
しかし、それには触れられず、嵯峨は「うじやうじやと動いている無数の時」を見出すだけである。そしてそれを「蛆虫の世界の時間」と呼んでいる。
「蛆虫」はどこかで「おたまじゃくし」に似ている。ふたつは、ともに「何の形もなしていない」(正しい形になっていない、おぞましいもの)、そして「むらがり」「うじやうじや」と動いている。動きも「不定形」である。
うーん、
どうしても、この「むらがり」「うじやうじや」と動いている「おたまじゃくし」「蛆虫」が「死」なのだと思ってしまう。「水田の底」と「頭蓋の底」、時計を分解することと「小さな(時計の)崩壊」もどこかで重なる。
「早すぎて形を何の形もなしていない」ということばは、「時」がくれば(早すぎて、といわれない時になれば)、それは正式な形(たとえば、蛙、たとえば、蠅)になる。つまり「生」以前になる。それ以前の、「むらがり」「うじやうじや」とした「動き」。それは、どこかで「死」とつながっているのだろうか。そこには「生」と「死」がまだ未分節の状態である--そういう未分節をとおしてしか「死」には触れられない、ということか。
「他人の死」には何度かひとは出会う。しかし「自分の死」には出会えない。出会ったときは、もう「生」ではなくなっていから……。
ことばでは追いきれない何かが書かれている、強い印象が残る詩だ。
71 小石に当つた死
ひとりの男が死んだ
その上に
もし空があるなら 窓の外を
するすると小石がのぼつてくるだろう
ひとりの子供が小石を空へほうり投げて遊んでいる
子供たちは大きくなつて
その小石をいつか自分の中の空に投げるようになるだろう
そしていま死んだ男は
とうとう自分の投げた小石に当つて死んだのだ
「自分の中の空」ということばが七行目に出てくる。現実の空ではなく「自分の中の空」、つまり心象風景になるだろう。二行目の「窓の外を」は室内にいて外を見ている--こころのなかから外を見ているという「心象」を指し示すことばのようにも感じられる。その心象のなかで男、子供、石が循環する。つなぎ目と切れ目の区別がなくなっていく。重なり合う。
タイトルの「小石に当つた死」というのも、その区別のない循環をあらわしている。「小石に当つた」のは「男」。「男」が死んだのであり、小石は「死」に当たったわけではない。でも、それを「小石に当つた死」と言う。男は死んだのだから、石は男が死んだあと、その死にも当たる、ということか。
「見知らぬ時間」と同じように、生と死が未分節のまま、ことばのなかを動いている。
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