嵯峨信之を読む(33) | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

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62 早春

 嵯峨は宮崎県出身。雪解けの春の川を知っているかどうかわからないが、この詩を読むと、雪国生まれの私は雪国の早春を思い出す。雪解けの水があふれる川。

あるおもいがことごとく崩れさろうとも
やがて濁り水が澄みはじめるのをじつと待つていよう

 雪が解ける。川べりから雪の塊も崩れ落ちる。その姿が「おもいがことごとく崩れ」るという感じと似ている。嵯峨が何を書こうとしたのかわからないが、私は私がおぼえていることを思い出し、嵯峨のことばに重ねてしまう。水かさが増え、水の勢いが川岸をえぐる。茶色く濁る。それもやがて澄み渡る。春になる。--この感じが、書き出しの二行にあふれている。

ひややかな早春の水面に帽子のかげが生きもののように映るとき
その尊さを雲雀に告げよう

 「帽子のかげが生きもののように映る」というのは実際の風景だろう。「帽子」は学生帽かもしれない。ここに登場する「ぼく」は学生で、その姿を川に映している。早春だから「卒業生」かもしれない。「卒業」して故郷を離れていく。そのときの「決意」が光っている。「尊さ」ということばのなかに、若い誇りのようなものがある。

63 桔梗の花

わたしが夢のなかで折つた花を見せましよう
うすい水いろの桔梗の花を
小さな発電所の横で手折つてきたときのように
いまもふるえているうすい水いろの花
それをあなたの心の一輪ざしに挿しましよう
すると未知の世界がそつとあなたのものとなるでしよう

 実際に「わたし」が「あなた」に桔梗の花を贈ったのかどうかわからないが、そうだと仮定すると、ことばが整理されすぎていて、なんだか嘘っぽい。軽い。ことばでつくりあげた、詩(夢)の世界という印象がする。
 この詩が書かれた時代と、いまの時代の差かもしれないが。いまは、だれもこんなふうには書かないだろうなあ、と思う。
 この詩で私がおもしろいと感じるのは三行目。「発電所」ということば。その存在の登場のさせ方。実際に嵯峨の知っている発電所の近くに桔梗が咲いていたのかもしれない。そうかもしれないが、この「発電所」だけがことばとして異質である。「うす水いろの花」「心の一輪ざし」「未知の世界」ということばは抽象的なので「桔梗の花」そのものも抽象的に見える。象徴のように感じられるのに、「発電所」だけが具体的な「不透明感」がある。それが「手折る」という動詞、「肉体」の動きとしっかり結びついている。
 この不透明感。ふと、「外国語」の文学にあらわれる「もの」の存在感に似ているなあ、と思う。
 心象を書こうとすると日本語の動きは、この嵯峨の詩のように「夢」からはじまり、「うす水いろの花」のように抽象的になってしまうことが多いが、外国の文学ではそういうことばは少なく、「発電所」のように、いきなり「もの」が出てくる。「もの」の組み合わせが「登場人物」の「暮らし」として出てくる。「もの」が「肉体」のように迫ってくる。
 「心の一輪ざし」という表現が象徴的である。「心の」ということばが「一輪挿し」を「もの」ではなく心象にしてしまう。「心」が「もの」を統一してしまう。「もの」の存在感を「うす水いろ」の「うすい」のように薄めてしまう。もの(存在)そのものの「自己主張」を稀薄にさせて、世界を調和させている感じだ。外国語の文学の場合、「うすめる」ことで「もの(存在)」の「共通項」をつなぎあわせるのではなく、濃密なまま、不透明なまま、どこかに「共通項」があると感じさせる。
 嵯峨の詩の感想から離れてしまったが、そんなことを思った。
嵯峨信之全詩集
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思潮社