書かれなかった詩のための注釈(3) | 詩はどこにあるか

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書かれなかった詩のための注釈(3)

「両の目を閉じて」。一般的には左右の目、両方の目を想像するかもしれないが、そうではない。「主語」は誰なのか、ということから詩を読み直さないといけない。次の行の「女のわきのにおいをかぐ」ということばから、詩人(男)が目を閉ざすと考えがちだが、そうではない。二人とも目を閉ざす。「両」は「両人」を省略したものである。

「両の目を閉じて」。何のために閉ざすのか。手淫するときの記憶のためである。セックスはほんらい嗅覚(におい)と聴覚(声を聞く)によって世界を広げる。見ることは快楽を疎外する。何も見えなくなって、自分自身の快楽におぼれる。そのとき「目は閉じられている」。ひとりでも目をあけて相手を見ていたら、その恍惚にあきれかえり、笑い出してしまうに違いない--と詩人は、視覚にこだわる有名な詩人を批判している。

「両の目を閉じて」。これは、女への「命令」でもある。命じられなくても、女は目をとじているが、それはいまおこなわれていることが愛でもセックスでもないからだ。恋愛とは「道理のない熱情」のことだが、そんなものはどこにもない。それを「見ない」ために、女は目を閉じる。そして、男の未熟な愛撫を受け入れる。それから演技をする。

「熱くさい」。この詩のなかで唯一書かれた「真実」のことばだ。「熱」は夕暮れの余韻を伝えている。触覚が動いている。しかも、直接触れない触覚。一種の矛盾。そこから「くさい」という嗅覚に飛躍する。感覚が、それまでの行動様式を否定して動く。一つの感覚は破壊され、新しい感覚になる。「くさい」は「におい」よりも暴力的である。暴力の愉悦、破壊の愉悦がある。「目を閉じた」のは「感覚を識別する意識」である。

未完の最終行の「幻」。十九世紀なら、有効だったかもしれないが、現代では無効である。「両の目を閉じて」幻を見るというのは、この詩人の限界である。「海辺」だの「まばゆい光の影」だのということばは、現代の読者を鼻じらませる。鼻の奥をつく「くささ」、その腐敗のなかへ感覚すべてがなだれこまないと、詩はそれこそ哀しい手淫という堕落になってしまう。




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