イメージが大きな詩である。
わたしはふと地球の孤独と対いあつた
はてしれぬ宇宙を旅している地球が
しずかに傾きつつわたしの傍を通りすぎる
「対いあつた」にはルビがないので正確な読み方がわからないが、私は「むかいあった(向かい合った)」と読んだ。向かい合うことが「対」になること。対話し、対等になること。「私」は地球になって宇宙を旅している。宇宙を旅する地球が私である。私は宇宙を旅している。「わたしの傍らを通りすぎる」というのは、そういう「イメージ」が通りすぎるということだろう。
鯨が一頭
海水を噴きあげながら悠悠と暗い海に呑みこまれた
大きな詩にふさわしい、大きなイメージだ。このとき嵯峨は鯨と「対」になって、つまり鯨になって海を悠然と泳いでいる。
こういう大きな世界を描いた後、「*」を挟んで、詩の後半。「きみはいま靴を脱いだのだ」という行ではじまるのだが、そのなかほど過ぎ、
ある大きな存在が
きみという靴を穿いて
この宇宙を通過したのではないのか
ぼくはその遠ざかる大きな存在に触れて
反対にきみのなかへ小さく帰つていく
「きみ」とは「時」のことである。「きみという靴」の「きみ」を「時」と言い換えると、タイトルになるのだから。そして、「大きな存在」とは「地球」のことだろう。「宇宙通過した」のは前半の連では「地球」だったのだから。タイトルにしたがえば、「地球」が「時」という靴を穿いて宇宙を通りすぎた。そのイメージに触れて、「ぼく」は「時」のなかへ帰っていく。「時」について考え、詩を書く。「わたし」は後半では「ぼく」と言いなおされている。「小さく」帰っていくの「小さく」は「大きな存在」の「大きな」と「対」になっている。「向き合っている」。向き合う、対になるは「対等」になる、「一つ」になるということでもあった。
「ぼく」は「時」でもある。
この詩では「わたし」「地球」「時」「きみ」「ぼく」が交錯しながら「対」になりり「一つ」になって、「宇宙」をわたっている。そういうスケールの大きいイメージがある。人間は時という宇宙を横切っていく存在だ。
そしてきみの擦り減らした古靴の片つ方が
そこに侘しく残つているのをみた
という終わり方は、センチメンタル(抒情的)な感じがするが、こういう抒情で終わるのが嵯峨の個性なのだと思う。
61 睡眠
この詩にも「時」が出てくる。
眠りは
絹の下をすべる裸のように滑らかで
魂の糸車からゆるやかに繰りだされる
この「時の叔母」の純粋な手に運ばれてきたものは
いつも遠くで熟れている
「時」は「どこにでもある」という意味では身近なものだが、それが「遠く」ということばと向き合っている。そして、この「遠く」は「宇宙」を感じさせる。「宇宙」のどこかで、「時」は熟れている。
この「熟れる」は「豊かになる」ということだと思う。だからこそ、次の行で、
重たくたれさがる稲の穂を浸しながら
と実った「稲の穂」と言いなおされる。
こういうイメージは「論理的」ではないが、直感的な美しさが、「論理」を超えて「正しい(真理)」となっている。
また「絹の下をすべる裸のように滑らか」ということばもおもしろい。滑らかなのは絹なのか、裸なのか。二つが融合し「一つ」になる--それが比喩。
![]() | OB抒情歌 |
嵯峨 信之 | |
詩学社 |