「花嫁」は「時」の比喩である。「時の眼差しは花嫁のように熟れている」というドイツの詩人の詩を読んだときひらめいたのだと詩人は語ってくれた。噴水の飛沫が早春の光をはじき返しているのが、コーヒー店の中から見えた。詩人は熟れた女のからだのなかで、新しいいのちが結晶したことを知った喜びとともに、幸福な詩を夢見たのである。
街を歩くと、「花嫁」といっしょに見たすべてのものが「生成し、完成してきている」と感じた、と詩人は彼にインスピレーションを与えた詩から一行をまるごと引用して語った。「花嫁の眼が、まだ生まれていなかったものさえ、街のあちこちに生み出していくようだ」と、こなれないことばで口早に語ったりもした。「これから萌え出す並木の若葉と競争になるなあ。」
なるほど、幸せというものはこんなふうにひとを無防備にするものらしい。そのまま書けば目敏い読者から「盗作」だと批判されるだけなのだが、詩人は、自分の感覚と他人の感覚の区別がつかなくなっている。他人の感覚で自分のことばが動くことに喜びさえ感じている。私が指摘すれば「そうさ、おれはいま花嫁なのだ」と的外れな応答をするに違いない。
「おれは花嫁なのだ」という行は書かれなかったが、書かれるべきだったのだろう。そのとき私には、詩人が花嫁を妊娠させたというよりも、花嫁から生まれてきたばかりのいのちに見えた。だが詩人は自分を認識するよりも、炎のように燃えあがる世界をとらえ直すのに忙しくて、大通りの舗道も裏通りの細い道も、信号を無視して逃げる車よりも速く百行も疾走するのだった。自覚の欠如が、この詩人の欠点だと、再度指摘しておきたい。
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