嵯峨信之を読む(29) | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

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54 落葉

 一連目が複雑である。

かれが木の葉のように生きていたら
そつと息を吹きかけてやろう
木の葉がふたたびかれのなかへ帰るように

 一行目、「かれ」は「木の葉」という比喩で語られる。ところが三行目の「木の葉」と「かれ」の関係が、おかしい。「木の葉」を「かれ」だとすると、

「かれ」がふたたび「かれ」のなかへ帰るように

 になってしまう。三行目の「かれ」は「木の葉」ではなく「木」のように、私には思える。落ちた「木の葉」がふたたび元の「木」に帰れるように、と書こうとしているのだと思う。そうすると、一行目の「かれ」も「木」であり、「木の葉」は「かれの一部」ということになる。「彼は木である」という「木」の比喩が、無意識のなかに動いている。それが無意識であるために、比喩が少し混乱しているように感じられる。
 この「かれ」と「木」の混同と言うか、混乱は三連目で「かれ」と「ぼく」の、無意識の「同一」になって動いている。

どこといつてかれはぼくに似ていない
動かなくなつたぼくの手に触れてかれは泪を流すだろう
ぼくがかれにもう何もしてやれなくなつたので
かれは小さな時間と落葉のなかにすつかり埋もれてしまうだろう

 「かれはぼくに似ていない」と嵯峨は書いているが、そっくりなのではないか。同じなのではないか。
 「動かなくなつたぼくの手に触れて」ということばのなかに、「混乱」が凝縮している。「かれ」は「木」あるいは「木の葉」である。「木」が「ぼく」に「触れる」とは通常は言わない。あくまで「ぼく(人間)」が「木」に触れる。「木」は動詞の主語にはなれない。
 「動かなくなつたぼく」は人間ではなく、「木」ではないだろうか。それにふれて「かれ」は「泪を流す」。そのとき「かれ」は「木」ではなく、むしろ人間である。「木」であるなら「泪を流す」のではなく「木の葉を落とす」。「泪」は「枯葉(落葉)」の比喩である。
 「木」(木の葉)と「ぼく」が、いつのまにか入れ代わっている。一連目で「かれ」と「木の葉」が入れ代わったように。「落葉のなかにすつかり埋もれてしまう」のは「かれ=木」ではなく「ぼく」である。木の葉を落とした「木」は、木の葉のなかに埋もれることはできない。木の葉を落とす前、木は木の葉に覆われ、木の葉に埋もれたような姿をしているのだから。
 しかし、こんな「理屈」は詩にとっては、あまり意味がない。明確に「ぼく」と「木」と「木の葉」の関係を「意味」でしばらずに、三つで「一つ」なのだと思って、騙されてしまえばいいのだ。そして、その騙されたときに見える「関係」(動き)が、なんとなくセンチメンタルでいいなあ、と思えばいいのだろう。

55 母

 亡くなった母の思い出か。

ふたたび母はあらわれなかつた
幾日も幾夜も

 「幾日」「幾夜」がかなしい。しかし、

ふと耳にきく声は
いつもの澄んだやさしい母の声だつた

 「いつもの」がとてもいい。「いつも」、それこそ「幾日」「幾夜」と数える必要がない日々だったのである。「数」を超越した愛が、そこにある。

嵯峨信之詩集 (現代詩文庫)
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思潮社