嵯峨信之を読む(26) | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

詩の感想・批評や映画の感想、美術の感想、政治問題などを思いつくままに書いています。

48 赤江村

 「静けさについて語るのをきこう」という一行からはじまる。だれが語るのか。「静けさ」が自分自身で語っているのを、「静かに」聞いている感じがする。そのとき「静けさ」が交錯する。その交錯は、詩人が自分で「静けさ」について語り、それを詩人自身が聞きながら反芻する姿にも見える。
 「ここ」にない「「静けさ」がどこかから、ことばといっしょに「ここ」あらわれてきて、「ここ」にある「静けさ」をさらに深くする。

汐のみちている河口の方を考えよう
そこはすでに一つの静けさだ
静けさはそうしてひとしれぬ遠いところでみのるのだ

 静かな河口を考える、思い浮かべる。そうするとそこに河口の「静けさ」があらわれてくる。河口が「静けさ」になる。そういうことを、嵯峨は「みのる」ということばで表現している。
 「静けさ」というものが、だんだんわかってくる。その「わかる」という感じが「みのる」。それは「頭」で「わかる」のではなく、「肉体」で「わかる」。
 嵯峨は、言い換えている。

時の内部は見えなくても
あなたの手はそれをじかに感じる

 「静けさ」と「時の内部」と言い換えられている。「時」は流れる。ときには激流になって流れる。「時」という川は流れ終わって、河口でたゆたっている。激しく流れるときも、ゆったりとたゆたっているときも、その「内部」にあるものは「外部」の姿とは違っているかもしれない。嵯峨が感じているのは「静かな」姿である。「静か」が実って(大きくなって)、そこに「存在している」。それを「じかに」感じている。

たわわにみのる静けさと
暗やみに刻まれている 一つの浄らかな彫姿(レリイフ)に触れることができる

 「たわわ」は「豊かさ」を言い換えたもの。「静けさ」が果実のように充実して重くなっている。その充実した彫姿に「触れる」。「手」で「触れる」。
 「触れる」というのは、手があって、その外側に彫姿があって、それが接触することだが、この詩の場合、外にある何かに触れる、という感じはしない。
 自分自身の内部に触れる、という感じがする。
 「時の内部」の「内部」ということばが、視線を「内部」に誘い込む。「見えなくても(見えない)」「暗闇」ということばも、意識を「内部」に誘い込む。「内部の暗闇」「見えない内部」。そこで「静けさ」が「みのる」。
 「暗やみに刻まれている」ということばが印象的だ。「暗やみ」のなかにある何か(大理石とか、木とか)ではなく、「暗やみ」そのものが刻まれている。詩人の「肉体の内部」にある「暗やみ」が刻まれて、「暗やみ」なのだけれど「浄らかな」ものになる。透明なものになる。透明だから、見えない。暗やみのなかだから、透明はなおさら見えない。そういう詩人の内部の、変化。
 「じかに感じる」の「じか」は、そういう「肉体の内部」の変化の感触だ。「手」で感じるというよりも「いのち」で感じる。
 嵯峨は「肉体内部」の「いのち」が直接感じたことを書いている。「静けさ」は自分の内部にある。それが満潮の河口の姿を思い浮かべるとき、その姿のなかにあらわれてくる。その「あらわれてくる」感じを「じかに」感じる。自分の内部で起きているから「じかに」しかありえないことである。
 「いのち」が「じかに」感じている。そのためだろうか、嵯峨の書いている「静けさ」は「かなしさ」にもつながっているように思える。何かを愛したときに動く静かな動きを感じさせる。

 「じかに」としか言えないことがある。「じかに」は詩人が感じていること。それを、「間接的に」触れることができる形にしたのが、詩。

49 純粋の流れ

 「純粋の流れ」からは「野火」という「章」の作品。

そのままじつと黙つていよう
ながれはじめた純粋の流れにこの身を浸すために
それを注意ぶかくみつめているきらめける白い星星
音楽はそれに刻んでいる
落葉のように無数の手で

 抽象的な詩だ。「純粋の流れ」というのは何のことだろう。よくわからない。
 私が思わず傍線を引いたのは「音楽はそれを刻んでいる」という行。
 音楽は何を何に刻んでいるのか。音楽に「純粋の流れ」が刻まれているようにも感じられる。嵯峨が書いている「文法」では、そんなふうに読むことはできないのだが、詩のことばは文法とは無関係に、何かをつきやぶって動く。動いた瞬間に、あるいは「誤読」した瞬間に感じ取るものが詩なのかもしれない。
 嵯峨の詩は、「きらめける白い星星」とか「落葉のように無数の手」というような表現のために「視覚の詩」という印象がある。嵯峨は視覚の詩人である、といいたくなるところがある。
 しかし、一方、この詩に書かれている「音楽」ということばが隠れた意識をあらわしているように、聴覚の詩人、音の詩人でもある。
 「ながれはじめた純粋の流れ」ということばのなかには「ながれ/流れ」が重複している。ことばの経済学からいうと「不経済」。「そのままじつと黙つていよう」の「そのまま」と「じつと」は同じ。「じつと」と「黙る」も意味的に重複している。不経済だ。でも、嵯峨は重複して書いてしまう。重複するときイメージが明確になると同時に、単なる「音」ではなく、重複がつくりだすリズム、音楽が生まれるからだ。
 詩の「音楽」というと、音の響きあいが問題になるが、音の響きあい以外にも、無意識の意味の反復のリズム、無意識の逸脱(?)のリズムにも耳を傾けないといけないと思う。
 「きらめける白い星星」というのは過剰な美しさで、視覚的にはうるさいかもしれない。けれど「きらめける」という暴走が「白い星星」という「音の連なり」には必要なのだ。「七五調」になって耳のなかをかけぬける軽さが、ここでは「音楽」のひとつだ。
(全体が「七五調」という意味ではない。)
 




嵯峨信之詩集 (現代詩文庫)
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思潮社