嵯峨信之を読む(25) | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

詩の感想・批評や映画の感想、美術の感想、政治問題などを思いつくままに書いています。

46 時雨

 「住吉海岸」の注釈。

少しの時雨を 吸取紙のように 暗い松林が吸い込んでいる

 時雨に濡れながら暗くなる(黒くなる)松林が目に浮かぶ。時雨の水分の量だけ暗く、黒くなる。吸取紙が水をすって暗くなるように。
 この書き出しは、三行目から少し別な形で言い換えられている。

心をそそぎこんで
かなしく外にあふれてしまう
まもなく信じられないほどの広いしずけさがやつてくる

 「吸取紙」は基本的に水をあふれさせない。しかし水の量が多ければ、紙だけでは吸収できず、あふれてしまう。心はどうなのだろう。悲しみの雫が心に落ちてくる。それが次第に増えて、水を注ぎこむように注がれると、それはあふれてしまう。
 最初は松林だけがぬれて見える。松の葉と幹がぬれて色を変える。時雨がさらに降り続くと、その「暗い」変化は松林だけではおさまらない。松林の周囲にもひろがっていく。周囲も徐々に暗くなる。
 その変化を「信じられないほどの広いしずけさ」と嵯峨は書く。
 「やつてくる」は松林のなかから外へあふるれ感じ、それを見つめている詩人の方にあふれてくる感じ。その「あふれる」が心のなかで動き、かなしみがあふれるにかわる。嵯峨は「かなしく」と書いているが、副詞ではなく「かなしい」という名詞として感じてしまう。そして、「しずけさ」と「かなしさ」が、「あふれる(やつてくる)」という「動詞」のなかで「ひとつ」になっているように感じられる。「しずけれ「ではなく「かなしみ」がやってくる。

47 少年哀歌

 「かつて音丸という妓あり」という注釈。嵯峨の初恋だろうか。悲恋に終わった恋なのだろうか。

ぼくはふと手くびに重みを感じる
あのひとの心からなにか去りゆくしずけさが
いまぼくの手につたわつてくるのだろう

 「あのひとの心」から去っていく(消えていく)のは嵯峨への恋かもしれない。あきらめるしかない恋が、「しずけさ」を感じさせる。
 「しずけさ」は「時雨」では「かなしく(かなしみ)」と言い換えられていた。この詩でも「しずけさ」は「かなしみ」と言い換えられるだろう。嵯峨の言語感覚では「しずけさ(しずかに)」「かなしさ(かなしく)」は通い合っている。
 静かな風景が描写されるとき、それは「かなしい風景」を象徴する。
 そう思うとき、引用した行の直前の一行がおもしろい。

蜜蜂の唸りが線を描いて消えていつた

 「唸り(音)」を「線」に変換してとらえるところは嵯峨が「視覚の詩人」であることを象徴している。「音」が消えていったのだが、そのとき「唸り」は「音」ではなく「線」という視覚でとられるものに変わっている。
 それが一義的なおもしろさだが、もうひとつ、「音」が消える、静かになるということが、「ぼくはふと手くびに重みを感じる」という感覚の引き金になっていることが非常におもしろい。その「重み」は次の行で「しずけさ」と書き換えられ、「かなしみ」につながっていく。蜜蜂の翅の音が消えて、しずかになるから、かなしみがみちてくるのである。かなしみが、手首を重くする。

 心から手首へ(肉体へ)、「かなしみ」が伝わるというのは、そこに断絶(飛躍)があるから、余計に鮮烈に感じられる。ふつうのことばでは表現できないことが起きているという印象となって、そこにある。


OB抒情歌
嵯峨 信之
詩学社