「病む女」は嵯峨が女を描写しているのではなく、嵯峨が病む女になっている。虚構の詩である。
ちようどわたしがこのように空しいこころでいるときに
わたしの内側からたれよりもわたし自身がそれをみつめているのに
という二行がある。「わたしの内側から」「わたし自身をみつめる」という視線のあり方、「わたし」を相対化する視線が、その「わたし」をさらに突き放して「女」にしてみつめているとも言える。相対化、客観化したいという気持ちが強くて自分自身を「女」に仮託したのだ。
その「気持ちの強さ」は「たれよりも」ということばになっている。気持ちの強さが高じて、「男」ではなく「女」という「存在」を必要としたのかもしれない。完全に切り離してみつめたいという気持ちが働いているのだろう。
この客観化(?)は、それ自体が「病気」である。自分が自分ではなくなる、自分が自分のまま「遠く」にあると感じる--それが「病気」だ。こう書いてしまうと、詩の世界が堂々巡りになるが、この「分離」の感じ、「空しさ」の感じが「病気」であり、それを嵯峨はさらに言いなおしている。
妹さえも「お姉さま……」というとき どんなに遠いところにいるかがわかる
わたしはなにかわけのわからぬ乗り物にのつているようだ
むかしは時を自分が通りぬけたのに
いまは時がわたしに触れて通りすぎる
ことばが「論理的」に動いているが、「論理」が動くとき、「分離」というものが生まれるのかもしれない。「論理」は「客観」でもある。「客観」を追求するとき、自己の「分離」と「空しい」が生まれる。
嵯峨が書きたいのは、そういうことかもしれないが、私はこの「論理的」な部分よりも、最初の方に出てくる三行が好きだ。
いましずかに重くわたしの手の上に息づいているものが
花束よりもその茎を小さく結んだ紐が
こんなに気になるのはなんということだろう
花束ではなく、茎を小さく結んだ紐--その具体的なものへのこだわり、描写、具体的なものをことばにする瞬間が、花束を見ている人間の「肉体」を感じさせる。
33 言葉
聞きそびれた昨日の言葉は
夕空にかかる虹のようにうつくしい
しかしその虹を地上にひきおろしてみると
それは一条の縄でしかない
ことばは意味を点検すると美しさを失うということだろうか。「虹(にじ)」に対して「一条(いちじょう)」ということばの向き合い方のなかに「二」と「一」の対比があるようで、おかしい。
また、ことばを「一条の縄」と「線」のようにとらえているものもおもしろい。この詩は二つの断章から構成されているのだが、後半には「小枝」という比喩が出てくる。「小枝」もまた「線状」のものである。
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