「誤読」について
「李白詩選」(松浦友久編訳、岩波文庫)に「與史郎中飲聴、黄鶴楼上吹笛(史郎中と飲み黄鶴楼上に笛を吹くを聴く)」という詩がある。その「現代語訳」が面白い。
一為遷客去長沙 一たび遷客と為って長沙に去る
西望長安不見家 西のかた長安を望めども家を見ず
黄鶴楼中吹玉笛 黄鶴楼中 玉笛を吹く
江城五月落梅花 江城 五月 落梅花
郎中の史君と酒を飲み、黄鶴楼上で吹く笛の音を聴く。
一たび左遷の客(たびびと)となって、はるかな長沙へと旅立って以来、
西のかた遠く長安を望んでも、わが家が見えるはずもない。
長江ぞいのこの城(まち)では、夏の盛りの五月というのに「落梅花」の曲が流れてゆく。
――あたかも、梅の花びらが風に乗って散るように。
「現代語訳」なのでところどころに原文にないことばが補われている。「笛を吹くを聴く」は「笛の音の聴く」と「音」が補われる。そうすることで日本語らしくなる。「遷客」は「左遷された/客(たびびと)」と意味が補われている。それだけなら、そんなに違和感はないのだが、4 行目の「現代語訳」はどうだろう。「長江ぞいのこの城(まち)では、夏の盛りの五月というのに「落梅花」の曲が流れてゆく。」は「夏の盛りの」が補われ、梅の花と奇異さが強調されている。さらに、
――あたかも、梅の花びらが風に乗って散るように。
これはいったいどこからきているのだろう。どこにも書かれていない。梅の花が風に乗って散るというのは、「常套句」であり、「常套句」というのは「美の形式」なのだろう。その「美の形式」を伝えたくて松浦は「現代語訳」をつくっている。
これは、我田引水させてもらうと、私がいつも書いている「誤読」である。書いていないことを、勝手に付け加えているのだから。
でも、詩を読む(文学を読む)とは、こんな風に「自分はこう思う」を付け加えてしまうものなのだ。なぜ付け加えるかというと、付け加えたことばで自分の存在(肉体/暮らし)をととのえるためである。ことばを、肉体で模倣する。肉体はことばを模倣するものである。「常套句」というのは、多くの肉体が模倣することで、「ことばの肉体」になったもののことである。
「笛を聴く」ではなく「笛の音を聴く」と「音」を補うのも「常套句」である。「音」のなかには「調べ/音楽」がある。「笛を聴く」のではなく「音楽を聴く」というのが「日本語の肉体」なのだ。「笛」を超えた「真(まこと)」を聴くといってもいいかもしれないが。詩はこの「常套句/ことばの肉体」をどう破って、「新しいことばの肉体」をつくりだすかという試みなのだと思う。
あ、書こうとしていたことからだんだんずれていくなあ。まあ、いいか。
他人の「誤読」の暴走を見ると、私はうれしくなる。読むというのは、やっぱり「誤読」以外にないのだ。
ちょっとめんどくさいのは……。
「常套句」がめんどうくさいのは、「常套句」というのは本来、多くの肉体を潜り抜け、肉体の共有と同じ形で成立したはずなのに、いったん「常套句」になってしまうと肉体を通らずに「頭」と直接結びつくことができる点だ。だから作家や詩人は「常套句」に対して慎重なのだが(「常套句」をつかうときは、その前後に「文学(共有されたことばの肉体)」をはりめぐらし、「常套句」が独立して歩き出すのをひきとめる工夫をする)、「文学」を意識しない人は、無頓着に、「ことばの経済学」(わかりやすく、合理的な「意味の伝達」手段)としてつかうとこである。
あ、ますます何を書こうとしていたのかわからなくなっていくが、端折って、松浦友久の現代語訳の最後の1行は「誤読」だが、「誤読」だからこそ、読んで楽しい、読んでよかったなあと私は感動した――と書いておく。
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