嵯峨信之を読む(17) | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

詩の感想・批評や映画の感想、美術の感想、政治問題などを思いつくままに書いています。

30 新生

 「意味性」と言えばいいのか「精神性」と言えばいいのか、抽象的な部分が多い。

人間の内部で
神がそのひとを自らの成長に任せはじめる時がある

 「神」と語られているものがどのような神なのか、私にはわからない。嵯峨の信仰について私は何も知らない。また、私は「神」というものを信じていないので、尚更、わからないのだが。しかし、人間の内部で何かが自らの力で育つということは、わかる。実感することがある。
 この二行を、嵯峨は、最後で言いなおしている。

するとなにかしら遠い合図が帰つてくる
あの盲(めし)いたひとに伝わるものが
急にまちがえてぼくの手に伝わつてきたように
怖ろしいまでに深い注意をひめた一つの合図が

 人は自ら成長するときがあるが、その前には「合図」がある。合図を受け止めて、それから成長する。だから、それはほんとうの「自ら」ではなく、あくまで「神」が与えてくれたものである。「神」が「任せ」たのである。
 「神」ということばの必然性は、「合図」という形で言いなおされている。
 この「合図」のことを「急にまちがえてぼくの手に伝わつてきたように」と書いているところが、この詩のポイントかもしれない。それは望んでいる瞬間にやってくるのではない。予期しないときに、突然、やってくる。「間違い」のようにやってくる。それが「間違い」であるかどうかは、それを受け止められるかどうかによって異なってくる。「間違い」であっても、それを受け止めれば、それは「正しい」に変わるのだ。あらゆる「合図」とは、そういうものだと思う。
 秘められた「深い注意」に気づくこと--それが自ら成長するということだ。
 
 この抽象的なことばの運動のなかほどに、少し不思議なイメージが書かれている。

熱帯の涼しい村のはずれを
ぼくがたどりついたこともない
静かな限界が眼の前に横たわる
無の川を流れる樹木
色とひかりと雲を沈めた丘

 日本の風景なのか、外国の風景なのか。桃源郷か。空想の風景なのだが、「無の川」の「無」のように、そこにふいに「日本的」な概念がまぎれこんでいる。(東洋の概念といってもいいのかも。)
 先に引用した「神」ということばを「西洋」風、この「無」を「日本」風と感じるのは、私の「誤解」かもしれないが、「熱帯」と「涼しい」が出会うように、「西洋」と「日本」が出会っているようでおもしろい。
 詩は「実感」を書いたものだが、その「実感」はときには知っていることばをつかってつくり出していくものでもある。「実感」に近づくために知っていることばをつかって、「自ら成長」していくものでもある。

31 櫂

 抽象的な詩、象徴詩というのは、ことばのすべてを「意味」にしなくてもいいのだと思う。イメージが動き、その動きが読者のなかに何かの印象を残せば、それでいいのだと思う。書いている詩人も「意味」を厳密に書いているわけではなく、「意味」になりきれない揺らぎを書いていると思う。
 嵯峨は「とらえられない」ということばで、そういうあいまいさと実感を書いている。「詩」を「櫂」という比喩にたくして、「詩はとらえられないもの」である、その「とらえられない」という気持ちのなかに生まれ、消えていくのもだと書いているようにわたしには感じられる。

それはどんな韻律(リズム)でもとらえられない
それはどんな文字綴(シラブル)でもとらえられない
もつともつと大気を自由にして
もつともつと光線を垂直にしても遂にとらえられない
ああ 昨日までぼくが触れていたものを
いま水面にとり落とした櫂のように
ぼくの心の渦をひとまわりしてやがてぼくから急速に遠ざかつていく

 こういう抽象的なこと、象徴的なことばの運動が詩になったり、詩ではない何か(哲学とか小説とか)になったりのは、何の違いによって起きるのか。
 ことばの音楽性によるのだと思う。音楽性が強いとき、読んで耳にことばが心地よく響いてくるとき、その響きを詩と言うのだと思う。
 この詩では、嵯峨は「韻律」に「リズム」ルビをふっている。「文字綴」と書いて「シラブル」と読ませている。「リズム」「シラブル」は音が軽い。そして日本語とは異質の音の組み合わせがあり、それがなんとなく楽しい。こういう音を本能的に選びとり、その響きにことばの全体をあわせていくことができる--これは詩人にとって重要な「才能」だと思う。
 イメージの美しさは、そこにあらわれる「視覚」の要素が美しいだけではなく、音として美しくないと広がりを書いてしまう。嵯峨はどんなときでも「耳」で音を確かめながら書いているようだ。耳の確かさを感じる。

嵯峨信之詩集 (芸林21世紀文庫)
嵯峨 信之
芸林書房