嵯峨信之を読む(13) | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

詩の感想・批評や映画の感想、美術の感想、政治問題などを思いつくままに書いています。

22 淡路の女

 誰と誰の会話だろうか。

ひそひそとやさしくささやいている女の声が聞こえる
淡路からきている女と話しているらしい
その意味はよくききとれないが
東京にきてからただ躓いてばかりいるという一言がわかつた

 ひとりは「淡路からきている女」、もうひとりは詩人の妻だろうか。それとも隣室の男だろうか。どうして「東京にきてからただ躓いてばかりいる」という一言がわかったのか。詩人もまた東京へきてから躓いてばかりいるのだろうか。ひとは自分の体験したことしかわからない。自分が体験したことなら、わかってしまう。違うことを言ったのかもしれないが、自分の体験にひきつけて「誤解」してしまう。
 詩人にも、だれかにひそひそと話したいことがあったのかもしれない。

何にでも合うつもりの一つの鍵が何にも合わず
やがて千の鍵をじやらじやらいわせながら目まぐるしく一生を終るのだ
それが人間のさだめというものだろう
どつちみちなにかの周りを大きくめぐるか小さくめぐるかだ
女は重い鍵の一束をあずけて淡路島へ帰つていつた

 詩人と女が直接話しているのかもしれない。直接話しているのだけれど「女の声が聞こえる」と第三者的に書いているのは、第三者ふうに書くことで、おきていることを客観化したいのかもしれない。
 「鍵」はほんものの鍵かもしれないが、比喩かもしれない。何にでも合う鍵とは「愛」かもしれない。それは「一つ」であるけれど、すべてを受け入れる。その「一つ」が「千の鍵」にかわったとき、「千」は人生の比喩になる。愛という「一つ」の鍵だけではのりきれない「人間のさだめ」。
 こういう抽象的な比喩は、しばしば「思想」(精神)と混同されるけれど、私は「意味」を考えるのは好きではない。最終行の「重い鍵の一束」は「重い」という修飾語で実感になる。わかりやすいけれど、わかりやすすぎて詩というよりも「流通感覚」で語られた「意味」に終わっている感じがする。
 そういう「意味」よりも、「淡路からきている」が、最後で「淡路島へ帰つていつた」という動きのなかに「躓く」という動詞が割り込んで詩を動かしているところが私には面白く感じられる。淡路からきて躓いていた女が、淡路へ帰っていく。「歩く/躓く」ということが、女を動かしている。「躓く」が「帰る」という動詞で比喩ではなく、「肉体」に食い込んでくる実感になっている。女の「肉体」がふっと見えるように感じられる。

23 水甕

少し明るさがもどつてくると
そのつややかな白い水甕は消えてしまう
夜なかじゆうそのなかの果しれぬ海をぼくは泳いだのだ

 「白い水甕」とは何の比喩だろう。何の比喩かわからないが、「水甕」だからどんなに大きくても限りがある。そのなかに「海」があるというのは、非現実的である。だから「海」も比喩だろう。
 --というのは、あとからの説明であって、私はこの詩を読んだ瞬間には、この詩を「非現実的」とは思わなかった。
 海が好きなせいかもしれないが、「海」「泳ぐ」と聞けば、瞬間的に海で水平線を目指して泳いでいるときの「肉体」を思い出してしまう。
 なぜ「水甕」を忘れてしまったのか。
 「水甕」は小さく限られた世界なのに、それを突き破るようにして「果しれぬ」と書かれているからだ。「小さい」ということばは書かれておらず、「果しれぬ」ということばだけが書かれている。そのために「大きさ(広さ)」が「果しれぬ」だけになる。その「果しれぬ」が「海」を誘い出す。「果しれぬ海」というのは常套句だけれど、常套句だからこそ、そういう効果があるのかもしれない。
 この「魔法」のようなことばの働きのなかに詩がある。
 この「魔法」は催眠術と同じで、きくひとにはきくが、きかないひとにはきかない。「果しれぬ」というようなあいまいなことばを受け入れないひとは「水甕」のなかに「海」があるというのは嘘だ、と拒絶するだろう。
 でも、私は、その「果しれぬ」に引きずり込まれてしまう。
 このあと、詩は、次のように展開する。

短い時がぐるぐるとぼくの腕を廻した
脚はたえず暗やみのそこにつよい力でひつぱられた
ぼくは魂のもつていたものをすつかり失つた
そしてどことも知れぬ遠い海岸に打ちあげられた
この時までぼくはかくも単純になつたことはなかつた
太陽が足のうらからはいつて脳皮から外へぬけだすまで
ぼくはなんでもないその自にぼくを委ねた

 どのことばが、どうの、とは具体的には言えないのだが、この「愛の唄」シリーズに女が出てくるからだと思うが、私はセックスを想像した。セックスの吸引力に引きつけられ、魂を失ってしまう。セックスが終わって、いままでとは違う世界に打ち上げられる。喜びに満ちて、太陽の祝福を受ける。
 「水甕」は女性の性器、そのなかに「果しれぬ海」がある。この「果しれぬ」は「固定されない」という意味だろう。それは「ぼく」が泳ぐかぎり「海」であり、泳ぎ終われば「海」ではないのはもちろん「水甕」でもない。
 この、あらわれたり消えたりするもの(こと)を「果しれぬ」という一言が「事実」(現実)にする。「果しれぬ」も「比喩」にはちがいないが、それは「肉体」で体験する「実感」だから、そこに詩がある。
                           2015年02月13日(金曜日)