大橋政人「空の人」、金井雄二「おごそかに慎重に、探すのである」 | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

詩の感想・批評や映画の感想、美術の感想、政治問題などを思いつくままに書いています。

大橋政人「空の人」、金井雄二「おごそかに慎重に、探すのである」(「独合点」121 、2015年02月01日発行)

 大橋政人「空の人」は「今年最後の犬の散歩で/田んぼのまん中で空を見上げ」る詩である。「大晦日」と言わずに「今年最後の犬の散歩」と書き出すところに、大橋の暮らしが見えて楽しい。(ほんとうに犬を飼っていて、散歩させているかどうかは別にして、大晦日が具体的でいいあな、と思う)。空を見上げると、メダカのような線が動いている。飛行機である。「初めて飛行機に乗ったときのことを思い出して/しばらく見上げて」いる。乗っている人のことを思う。

もう窓の外は暗いから
北関東のこの辺を
見下ろす人もいないだろう
中には自分の足の下の
その下の空間を意識しながら
空しく足を踏ん張っている人も
いるかもしれない
家に帰って
今年最後の風呂につかりながら
空高く行く人の
足の下のムズムズについて
考えた

 奇妙におかしい。「空高く行く人の/足の下のムズムズについて/考えた」のは、初めて飛行機に乗ったとき、大橋も「空しく足を踏ん張っ」たからだろうか。「肉体」がおぼえていることを思い出し、自分の「肉体」と他人の「肉体」を重ねる。「肉体」が重なってしまうと、そのとき、もう大橋は大橋ではなく、「空高く行く人」になっている。「空高く行く人の/足の下のムズムズについて/考えた」と書いてあるのだけれど、

空高く行く人になって
足の下のムズムズを
感じた

 が「実感」かもしれない。
 おもしろいなあ。
 「他人」になって、「肉体」が感じていることを感じて、それが昔の「私(大橋)」にもなる。「他人」と「大橋」の区別がなくなる。
 詩というのは、これだね。「他人」と「私」の区別がなくなって、そこに書かれていることは全部自分のことになる。
 で、その「象徴」のようなものが

足の下のムズムズ

 これは、おかしいねえ。
 何がって……。
 「ムズムズ」をほかのことばで言いなおせる? 私は、月一回数人の仲間と詩を読みあっている。そのとき、時々そこに出てくる表現を別のことばで言いなおすとどうなる? 自分のことばで言いなおすとどうなる? という意地悪な質問をする。
 この詩の「ムズムズ」についても、そういう質問をしてみたい。いまは一人で感想を書いているので、質問できないのだが……。そうすると、きっとみんな、答えられない。「ムズムズ」がわかるのに、ほかにどう言いなおせばいいのかわからない。
 このとき、大橋と私たちの「肉体」が重なってしまっている。「ムズムズ」ということばで区別がなくなってしまっている。区別できないから、言いなおせない。「ムズムズ」を足で感じるから、言いなおす必要がない。
 「肉体」でことばが共有され、ことばを通して「肉体」が「ひとつ」になっている。「ひとつ」になって、動いている。
 大橋が「足のムズムズ」を通して「空行く人」と「ひとつ」になるとき、読者も大橋、「空行く人」と「ひとつ」になる。三人が「ひとつ」になる。(こうやって人間はことばをおぼえる。)

 そういうことを感じた後、もう一度、書き出しの「今年最後の犬の散歩で」に戻る。そうすると、「大晦日」と書かなかった「理由」のようなものもわかる。「大晦日」と書いた方が「ことばの経済学(意味の伝達)」には「合理的」なのだが、詩で書きたいものは「意味」なんかじゃないね。
 大橋の書きたかったのは「足の感覚」から「他人」と「ひとつ」になること。「犬の散歩」はたいていは「歩いて」する。つまり「足」をつかって動く。最初から「足」が主役だったのだ。
 うまいね。



 金井雄二「おごそかに慎重に、探すのである」はタイトルはおおげさだけれど、「内容」は夜中に冷蔵庫を開けてビールを探すというもの。要約してしまうと、おもしろくもおかしくもないのだけれど……。

佃煮
漬物
残り物

 いやあ、笑ってしまうなあ。「残り物」ということばの「生活感」がとてもいい。「残り物」には捨てるものと捨てないものがある。また後で食べるものは冷蔵庫にしまう。どこの家庭でもやっていることなのだが、「あ、同じ」という感じが金井と私を「ひとり」にしてしまう。金井は金井のしたことを書いているのに、金井のしていることに私が重なってしまう。そこからは、もう「金井」が主人公ではなく、「私(読者/谷内)」が主人公。「私(谷内)」の「肉体」が金井のことばをとおって動いていく。

真冬のこごえた部屋の片隅の
そのまた寒い台所の
暗い闇の中に居座る冷たい箱の奥深く

見つけた

ぼくはドアを閉める
眠っている人を起こさぬよう
プルリングを起こす

 「起こさぬよう/起こす」というのはだじゃれみたいなものだけれど、最後の「起こす」で「肉体」がしっかり重なる。そこで「肉体」が重なるから、その直前の「起こさぬよう」という「配慮」も重なる。
 「配慮」というは「気持ち」。つまり、この詩を読み終わると、私(谷内)は「肉体」も「気持ち」も金井になってしまう。
 そこに何か「意味」があるか、「価値」があるか、と問われると困るけれど、「意味/価値」とは関係ない「肉体」の無意味さの方が「思想」だと私は感じている。いつも、少しずつととのえながら、人間をささえる力になっているからね。そのときのととのえ方のなかに知らず知らず入ってくることばが詩や小説(文学)のことばだと私は信じている。

26個の風船―大橋政人詩集
大橋 政人
榛名まほろば出版