有働薫「繻子の熾たち」はある日の教室の風景。
年取って教壇に立つと
教室の後ろのほうの席で
ぱらぱらと座っている生徒の肩先に
鳥の羽先が突き出ているのが見える
本人たちは気付かないで
神妙な顔で小さな肩をいからせている
天使の生徒。生徒の天使。「本人たちは気付かないで/神妙な顔で小さな肩をいからせている」は有働にはそう見えるということ。「本人たちは気付かないで」と書くと、まるで生徒たちを客観的に描写しているようにみえるが、あくまで有働の「意識」がそこに反映されている。「本人たちは気付かない」のではなく、有働がそこに有働の「気(意識)」をつけくわえているのである。
ずうずうしく座っているよ
まるで人間の子供のつもりで あるいは
あの孤独で凶暴な少年詩人が
行き場がなくてやむなく舞い戻ったという顔付で
「あの孤独で凶暴な詩人」とはランボーだろう。フランス語に親しんでいる有働は、フランスの詩人ランボーを思い出してしまう。有働が英語圏の詩人、あるいはドイツ語圏の詩人、その他の言語の詩人に親しんでいるのだとしたら、ここにはまた別の「少年詩人」が登場したかもしれない。
ランボーを「孤独で凶暴」ととらえるのも有働の意識(気)をつけくわえたもの、有働の「批評(評価)」から見たもの。
これを最後の方で、もう一度言いなおしている。
ともかく今日は灰色のエンゼルが
おまえに教わることなんてなんにもないよと
偉そうに三羽とまっていたよ
奇跡って起こるよ
天使って居るよ
いくら凶暴だって天使は天使
背中の羽根が肩先から突き出ているよ
「凶暴だって天使は天使」は「凶暴」の受け入れ。詩は論理ではないから、また凶暴であってもかまわない。他人に危害を与えてもかまわない。傷つけられ、痛みを感じることで、自分がまだあざやかな血を流すことができると知ることもあるだろう。
こういう経験を「覚醒」の経験と呼ぶのかもしれない。教壇から生徒を見ながら「これは詩になる」と有働はひらめいた(覚醒した)のである。
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