嵯峨信之を読む(4) | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

詩の感想・批評や映画の感想、美術の感想、政治問題などを思いつくままに書いています。

4 別離

できるなら
ぼくはそこでその全部を暗誦したかつた
(生きた日のかぎりを)
それからプールの縁に桜草をいつぱいに植えて行きたかつた
わらべ唄をうたい
遠い日の子供になつて

 幼い日の、だれかとの別れを描いているか「生きた日」ということばから、だれかの死の思い出かもしれない。
 三行目は二行目の言い直し(補足説明)だが、「全部」と「かぎり」という反対のことばが対になっているところに詩を感じた。「全部」は「限定」しないから「全部」。それに対して「かぎり」は「限定」。限定なしと限定が向き合っているのだが、「生きた日のかぎり」ということばが死を連想させ、「全部」の方が「その」という限定をうけているにもかかわらず、言い尽くせない感じ、「かぎり」を超えてどこまでもひろがる印象を引き起こす。「全部」には果てがない。「かぎり(限定)」をしようにも、それができない。どんどん増えていく。増えていくものを「全部」暗誦することは不可能だ。
 そこから悲しみが生まれてくる。

5 イヴ以前の女

笑うことも
泣くことも
まだなに一つ知らぬ女の死顔の無限の寂しさに堪えられなかつた

 「ひとつ」と「無限」は反対のことばである。(「別離」の「全部」と「かぎり」のうように。)「死」と「無限」も反対のことばかもしれない。対極にあることばが一行のなかで出会っている。それは衝突であると同時に分裂でもある。
 こんなふうに「ことば」を文脈からとりはらって見つめることは「解釈」(詩の理解の方法)として正しくはないかもしれない。けれど、詩を読んでいて、こころがまず反応するのは「論理的な意味」ではなく、そこに動いていることばそのものに対してである。「ひとつ」と「無限」は反対のことばなのに、それが一行のなかに同居している。その不思議さに、いままで知っているつもりだった「ひとつ」と「無限」が揺さぶられる。そして、「ひとつ」と「無限」があいまいになったところへ、「死顔」「寂しさ」が結びついてくると、「無限」なのに「ひとつ」になってしまう。寂しさは果てしないのに、果てしないことによって「ひとつ」、どこまでもどこまでも「無限にひとつ」という形に結晶してくる。
 知っているつもりのことばが、知らなかったことばに変化していく。知らなかった(知らない)ものが、そのとき「知っている」に変わる。この「知っている」は、私の勘違い(誤読)かもしれないが、こんなふうに「誤読」することが詩を読むことだと思う。
嵯峨信之詩集 (現代詩文庫)
嵯峨 信之
思潮社