『嵯峨信之全詩集』を読む | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

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 嵯峨信之を私はほとんど読んでいない。思潮社から出版された『嵯峨信之全詩集』(2012年04月18日発行)を少しずつ読んでみる。

 『愛と詩の数え唄』(1957年)。「ノアの方舟」「愛の唄」「日向抒情歌」「野火」「ヒロシマ神話」「人間の仔」と章に分かれている。
 巻頭の「孤独者」

よく熟れた広い麦ばたけを
あらしがきて根こそぎ薙ぎ倒していつた
一瞬 ばらばらになつた金いろの麦よ
ある種のこの解放 そして私的な死
すでにおだやかな夕凪がひとびとを充たしはじめたときに
このレパートリイからただ一人立ち去つていく者に路を開けよ

 前半は嵐が麦畑を襲った様子が書かれている。自然描写。それは「わかる」。その風景を想像できる。
 「ある種の……」からは自然描写ではなく、詩人(嵯峨)が考えたことだ。
 麦畑が嵐で倒された。それは栽培している人にとってはうれしいことではない。この詩のなかに書かれていることばを借りれば「死」になるかもしれない。けれど、嵯峨は、その状態を「解放」と書いている。
 なんなのだろう、「解放」とは。
 麦を作る。植える。育てる。収穫する。そういう一連の農作業がある。それが突然の嵐で台無しになる。何かが破壊されたとき、それを作り上げていた「規則」のようなものが崩れてしまう。しばりつけるものがなくなる。しばりつけていたものが無効になる。それは、何か「解放感」をもたらす。
 それはもちろん「錯覚」である。破壊された麦、嵐で倒された麦をほうっておいていいわけではない。
 しかし、新しく仕事を始める前に、たしかに瞬間的な「解放」がある。しばりつけていた何かが途切れる瞬間がある。この断絶の一瞬は「私的な死」。嵯峨が一瞬感じただけの「錯覚」である。
 この、自分のしてきたこと(麦を育ててきたこと)が瞬間的に破壊され、その瞬間に「解放された」と感じるのは、その後の仕事を思うと間違っている。矛盾した喜びである。「解放」を「死」と呼んでしまうのは、そういう矛盾もあるからなのだが、だからこそそこに詩がある、ことばになろうとして、ことばになられない何かがある。「流通言語」になれない、錯乱(混沌)がある。
 それにつづく二行はむずかしい。
 嵐がさって、静かな夕暮れがやってくる。「夕凪」というのは麦畑が風に荒らされて大波のように揺れていたのがおさまった状態。ひとびとは、やっと嵐がおさまった。さあ、これから仕事だと感じている。そうして実際に仕事をはじめたかもしれない。
 詩人は、その様子を見ながら、そこから去っていく。麦を収穫するという仕事から一人去っていく。去っていく(去っていける)のは、嵯峨が実際は農作業をしていないからだ。
 だから、この詩は、農作業をしているひとの「声」を書いたものではない。嵐で倒される麦畑を見た詩人の「声」である。「解放」も「死」も、詩人がその風景と、麦をつくる仕事のことを考えながら感じたことがらである。
 自分のことを書かなくても詩なのか。
 詩である。
 いままで見たことのないものを見て、ことばが動く。麦をつくっていなくても、それをつくる仕事のなかをことばが動き、嵐に遭ったときのことばが動く。その動きを、まだだれも書いていないことばで書けば、そこに詩が生まれる。
 詩は、わかっていることを書くのではない。わからない何かを書く。わからないからこそ書く。書くことで動いていく。
 詩はいつでも、自分の行く路を行く。それまでのことばに対して、「路を開けよ」といいながら、いままでいた「場/時」を去っていくもののことかもしれない。
 そんなふうに去っていくものはいつも「一人」である。孤独である。まだ書かれていないことばのなかを歩くのだから--という思いがタイトルにこめられている。

 この詩は「麦ばたけ」「金いろ」という、一種、かわった「表記」をつかっている。「麦畑」「金色」と嵯峨は書かない。「嵐」も「あらし」と書いている。「意味」よりも、表記にこだわっている。ことばを、ゆっくりと歩かせようとしているように見える。


嵯峨信之全詩集
嵯峨 信之
思潮社