近藤久也『オープン・ザ・ドア』 | 詩はどこにあるか

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近藤久也『オープン・ザ・ドア』(思潮社、2014年09月10日発行)

 近藤久也『オープン・ザ・ドア』は文体がしっかりしている。「うなすな」は妻の父に会いに行ったときのことを書いている。

岳父とは
話した記憶がない
列車を乗り継ぎ
訪ねた日
近くでとれたという蜂の子のごはん
泉水の鯉の洗い
うまいだろうと言うので
黙々と食べ
つがれるままに
飲み続けた
ごはんのうえの
足長蜂の折れ曲がった足
障子の向こうの泉水に
流れ落ちる裏山の水

 書き出しがとても印象的だ。「岳父」。
 私は「岳父」というようなことばを自分ではつかったことがない。「義理の父親」、あるいは「妻の父親」という具合に言ってしまうが、私の言い方だとことばがもたもたする。人間が二人出てきてしまう。「妻」と妻の「父」。けれど、近藤の言い方では、「二人」にならずに、「妻」を経由せずに、突然「その人」が出てくる。
 わかりきったことは言わない。わかりきったことは省略する。省略して、もし意味が通じなくても、そんなことは気にしない。
 ことばに「むだ」がないのだ。
 「むだ」とは「論理」のことかもしれない。近藤は「論理」を省略して、事実だけを「もの」として書く。この姿勢(書き方)がゆるぎがないので「しっかりしている」という印象が生まれる。
 どこがおもしろいのか、と問われると説明に困るが、この説明に困るくらいむだがないことばの組み合わせがおもしろい、としか言いようがない。

妻づてに
戦中潜水艦の料理人で
カレーライスのあとに熱いお茶をだしたら
即座に上官になぐられたと
てきぱき、きっちりと
事を進めねば気の済まぬ性質(たち)
動くまえに言葉を並べると
うなすな言うなが口癖

 「うなすな言うな」は方言。その説明は書かれていない。「うなすな言うな」を標準語で言い直し、「説明(論理を分かりやすくする)」にしようとしていない。
 「論理(説明)」は書かれていないが、状況から「意味」はわかる。「意味」というのはだいたい、そういうものだろう。ことばで説明してわかるのではなく「状況」がわかって、その「状況」に「肉体」がなじんだときに、ことばをつかわずに納得する。それが「わかる」なのだから、説明する必要はない。
 そういうことがわかっているのから、近藤は「意味」を書かずに「状況」を書く。その姿勢が一貫している。
 「性質」を「せいしつ」と論理的(精神的/抽象的?)に読まずに「たち」と読んでいるものいい。「たち」の方が「なま身」の「肉体」が動く感じがする。「肉体」は眼で見える「状況」でもある。「せいしつ」は「肉体」の内部で動いている目に見えない精神的状況かも……。
 目に見える「状況」に限定してことばを動かす、むだなことは言わない--これは、なかなかむずかしいことである。
 このむだなことばをつかわないという姿勢は近藤だけではなく、近藤の周囲で実践されているらしい。「岳父」だけではないらしい。

大学生の娘は
誠実な人なんですとしたためると
返事を待たず
大阪で
くらしはじめた

 大学生だった娘(岳父の娘、つまり妻)は、父に近藤のことを「誠実な人なんです」と手紙を書くと、その返事も待たずに近藤といっしょに大阪で暮らしはじめた、結婚生活に入ったということなのだが、ことばが速くて、とても気持ちがいい。
 で、こういうてきぱきとしたことばに冒頭の「岳父」というちょっと古めかしいことばが実に似合っている。すべての「もの(こと)」と「ことば」が一つずつ直結していて、脇へあふれていくことがない。
 「現代詩」はことばを踏み台にして、ことばから逸脱していくことばの運動(変な言い方だが)をするものが多いのだが、近藤は、そういう風潮から離れた場所で、独自にことばを動かしている。
 潔癖で、いさぎよい。だから、気持ちがいい。

 むだがないと、味気ないか。いや、そんなことはない。「芽吹く」という詩。

口あけて
板にねてると或る日
妻はつぶやく
唇は閉じるためにあると
けれど
唇は開くためにあるのだと
わたしは断固
反対だ

若いころ彼女は
唇は開くためにあると
いったようにおもう
そのころは
なにかのために
あることに
わたしは断固
反対だったが

 何が書いてあるのかな? 布団ではなく板の間にうたた寝していると、「口をあけて寝ている姿がみっともない。口を閉じたらどう。口(唇)は閉じるためにある」と妻が非難したのかもしれない。
 でも、若いとき彼女は(!、「妻」ではなく、まだ「彼女」だった時代は)、「唇は開くためにある」と言った。それはキスして、ということだったのかもしれない。そのこと、近藤は「……のためにある」というような「論理」が嫌いだったようだ。単純に「キスして」と言えばいいのに、「論理」を持ち出してくることがいやだったのかもしれない。
 詩の文体、その「論理」を排除したことばの運動を読んでくると、そんなことも思ってしまうが……。
 でも、いまは「唇は開くためにある」と言ってキスをしたときことを思い出している。キスの味を思い出している。
 その三連目。

時は過ぎ
かたちは
記憶にすぎないが
手触りはのこる
未だやわらかい
彼女のうちがわと
わたしのうちがわにも
唇はおもうために在り
唇はおもうために無いのだと
ひわひわと
疑念が芽吹いてくる

 近藤が何を書こうとしたのか、私は、無視してしまう。無視して「彼女のうちがわと/わたしのうちがわ」ということばのなかにキスしている二人を思う。下が唇の内側(つまり、口のなかなんだけれど)をまさぐっている。やわらかい「肉体」の内部をまさぐっている。「やわらかい」と感じている--そのときのエロチックな感じ(疑念、だそうである)を思い出している。
 「肉体」が見える、というのはいいことだ。

オープン・ザ・ドア
近藤久也
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