谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(15) | 詩はどこにあるか

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谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(15)(ナナロク社、2014年11月01日発行)

 「アイ」は「故郷」とも「ひらがな」とも違うタマシヒを書いている。違うのだけれど、強く結びついているとも感じる。

一人のカラダがもう一人のカラダの深みに沈むとき
タマシヒはさらに深いところにいる
情に流されず
知に惑わされることもなく
人はヒトデナシという生きものになっていて…

タマシヒに守られて
アイに近づく

 一行目はセックスを連想させる。セックスを書いているのだと思う。セックスをするときタマシヒはどこにあるか。セックスとタマシヒは共存できるか。
 私はもともと魂の存在を信じないので、魂とセックスの関係を考えたことがないのだが、魂ほどセックスに似合わないことばはないように思う。「大和魂のセックス」なんて、変だよね。きっと人はセックスするとき、セックスにおぼれるとき、魂のことなんか考えない。
 そのことを谷川は、「タマシヒはさらに深いところにいる」と書いている。この「さらに深いところ」というのはカラダが沈み込んでいる深みよりもさらに深いという意味だけれど……。
 私は馬鹿だから何でも具体的に考えてしまうのだが、一行目の「一人のカラダ」と最初に書かれているのは男だろう。それが「もう一人のカラダの深みに沈む」とは女のカラダの深みに沈む。ペニスがヴァギナの奥に沈み込むと想像する。
 そのまま「論理」的に考えると、それよりも深いところ、ペニスが沈み込んだところよりも深いところ--これは、どこ? 女の子宮?
 うーん、変だぞ。男のタマシヒは女のカラダの奥にあることになってしまう。
 どこで間違えたのか。男のペニスが女のヴァギナに入っていくことがセックスととらえる男根主義(マチズム)が間違っている。私は古い人間なので、ついつい男根主義の手順(?)でセックスを想像してしまうようだ。反省。
 男と女が肉体をあわせる。結びつく。そのとき肉体に起きていることは、入る/入られるということではないのだろう。それは「便宜上」の動作であって、肉体はもっとほかのことをしている。簡単に言うと、男は女の肉体のなかに入っていくふりをして、自分の肉体の奥へ入って行っている。そして奥から、いままで自分が体験して来なかった快感をひっぱり出そうとしている。男根主義者なら女のなかから快感を引き出し、女によろこびを与える、というかもしれないけれど、そういう欲望も男の肉体のなかにあるのだから、男は男で自分の肉体と欲望を貪っている。自分に夢中になっているというのが恥ずかしいので、女によろこびを与えると嘘をつくのである。
 そういう「夢中」のさらに「深いところ」にタマシヒは「いる」と谷川は書いているのだろう。肉体のよろこびに夢中になる欲望(本能)とは別のところにタマシヒは「いる」と。
 で、そういうタマシヒから人間を見ると……。

人はヒトデナシという生きものになっていて…

 うーん。「ヒトデナシ」か。そうか、「ヒトデナシ」か。そうだろうなあ。「ヒトデナシ」だろうなあ。
 これは、別な言い方をすると「タマシヒデナシ」かもしれない。
 タマシヒではない、タマシヒとは別なもの。
 そう考えると「大和魂のセックス」というのが変ということもよくわかる。魂とセックスは決していっしょにならないのだ。魂がセックスを「魂でなし」と呼ぶのだ。ヒトが人を「ヒトデナシ」と呼ぶときがあるように。
 「タマシヒデナシ」ということばはないから、そのことばをつかって考えるのはむずかしいが、これを「ひとでなし」で考えてみると。
 「ヒトデナシ」と批判されても、そのときその人は「ヒト(人間)」なのだし、また、その「ヒトデナシ」と呼ばれる行為を止めるというのもむずかしい。どうしても「ヒトデナシ」になってしまう。ならずにはいられない。
 「ヒトデナシ」のなかには、セックスのことばで言えば「エクスタシー」が含まれている。自分が自分でなくなってしまう快感が。

 私はきのう(11月21日)、映画「俺たちに明日はない(ボニー&クライド)」を見た。二人は銀行強盗を重ねる。殺人もやってしまう。「ヒトデナシ」の行為だ。その最初の犯行のときの快感が「エクスタシー」。その瞬間、失業者であることを忘れる。ウェートレスであることを忘れる。何と名づければいいのかわからないが、たしかに「いままでの自分」の「外」にいる、自分を突き破って「外」に出た感じがある。自分が自分でなくなってしまう。何でもできるんだとうい悦びで肉体が満たされる。
 そういうことに対して、親の世代は「ヒトデナシ」とひとくくりにする。「ヒト」の道義に外れる、ということである。人間にはしてはいけないことがあり、それをすると「ヒトデナシ」になる。
 そう考えるとタマシヒは「道義」のようなものかもしれない。「道義」のように、変わらずにある何かに通じるものかもしれない。

 脱線したかな?

 谷川の詩がおもしろいのは、「ヒトデナシ」のような、論理ではうまく追うことのできない何かをつかんだあと、それが「意味」になる前に、そこからぱっと飛躍してしまうところだ。

タマシヒに守られて
アイに近づく

 セックスを描き、「ヒトデナシ」という「声」を聞き取り、そこから一気に「アイ」に飛躍する。この「アイ」は「愛」かもしれないし、英語の「I(私)」かもしれないが、「ヒトデナシ」になって自分から飛び出してしまって、そのあとで初めて「愛」に近づく。逸脱していく「私」をタマシヒが「愛」へと導く。
 「愛」は自分のに閉じこもっていては愛にはならない。愛とは、自分が自分ではなくなってしまってもいいと覚悟して、他人についていくこと、他人に従って自分の外へ出ていくことだから。自分ではなくなることによって、初めてほんとうの自分(アイ/I)になる。
 それこそ「情に流されず/知にも惑わされることもなく」、強い「愛」そのものになるのかもしれない。

 --こんなめんどうくさいことを谷川は書いているのではないのかもしれない。けれど、なぜか、こんなふうに私はめんどうくさいこと考えてしまう。
 谷川の書いていることばはどれもこれも簡単なことばというか、聞いたことのあることばなのだが、その「聞いたことがある」を私は自分の「肉体」のなかに探し回ってしまう。これは、いつ、どこで、どんなときに聞いたのだろう。そのとき私の「肉体」は何をしていたのだろう。それを思い出そうとすると、手探りになってしまう。
 手探りして、何かが見つかるわけではないのだが、手探りをしているとふと何かに触れたように感じる瞬間がある。あ、これはあれかな、とことばにならないまま、「あれ」を感じる。

 セックスと「ヒトデナシ」と「タマシヒ」と「アイ」。論理的に言いなおそうとすると、ごちゃごちゃしてしまうけれど、それはきっと「知に惑わされている」のだろう。「知」を捨てて(論理的になることを止めて)、きょうは「ヒトデナシ」と「アイ」がどこかでつながっているぞ、とだけ覚えておこう。

 この「アイ」のとなり(左ページ)に洗濯したシャツの写真。針金のハンガーに五枚。右側の三枚は風のせいでシャツがくっついている。左の二枚は離れている。光があたっている。影もある。その光と風と影の動きに、私は「肉体」を感じてしまう。それを着ていた「肉体」のことを思ってしまう。
 「アイ」というよりもセックスについて思ったからだろうか。




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