「忘却」は四行の短いスケッチである。
温室に閉じ込められた
ガラス・ケースの中の花たちは
陽の輝かしさを忘れ
露けき涼風の吹き過ぎ行く心地を忘れている。
「花」は何の花だろうか。カヴァフィスは明示せず、一般名詞のままにしている。これはカヴァフィスの「修飾語」の排除を好む気質のあらわれかもしれない。表面的な「個別性」よりも、その内部を支配している「普遍的」な運動を書きたいのかもしれない。
花は、内部で何が起きたときに花になるのか。
この詩では、逆説的に書かれている。
太陽の輝かしさ、涼風の心地よさを「忘れる」ときに、花になる。温室の、しかもガラスケースに納められた花になる。
自然の花はそれとは逆に、太陽の輝かしさを「覚え」、涼風の心地よさを「覚える」ときに花になる。花自身の「肉体」で「覚える」。外部にあるものを内部に取り込み、「覚える」。そして、花になる。
この詩のことばのなかを動いているものにあわせて、「混乱」を読み直すとどうなるだろうか。
「魂」が「肉体」の内部にあって、「肉体」の外にあるものを取り込んだとき「魂」は「魂」になるのではないだろうか。「魂」が「肉体」の外側にさまよい出るのではなく、内部にとどまり、「魂」の手には届かないものを「肉体」の手を借りて、「肉体」の内部に取り込んだとき、「魂」が「ほんとうの魂」に生まれ変わる--そういうことを書きたかったのかもしれない。
「魂」は「肉体」からはじき出され、「魂」の欲するものを探している。しかし、それは「やっては来ない」。そして夢をかなえられなかった「魂」は「肉体」に返っていくだけである。「肉体」に返った「魂」は、やがて求めて手に入れることのできなかったものを「忘れる」。そうし、「ガラス・ケース」のなかの「魂」になってしまう。
ほんとうは違う動き方、生き方があるのだ。けれどカヴァフィスはまだそれを手に入れるための方法を知らない。詩は、そのどうやってことばを動かせば必要なものが手に入るのか、わからないまま、さまよっている。
あるいは自然のやさしさと暴力から隔離されている花を見て、その花はまだほんとうの美しさに達していない。本能を生きる美しさを手に入れていないよ--とささやきかけているのかもしれない。出ておいで、と誘っている、あるいはそそのかしているのかもしれない。そうならば、この詩は、触れることのできない相手をうたった男色の詩になる。
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