長嶋南子『はじめに闇があった』(3) | 詩はどこにあるか

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長嶋南子『はじめに闇があった』(3)(思潮社、2014年08月06日発行)

 長嶋の詩のどこが好きか--なかなか言うのがむずかしい。書かれている対象についての「愛」が複雑なのだ。愛していながら、どこか相手をばかにしている。ばかにしないことにはやっていけないくらい愛している。嫌いだ、好きにしろ、と言って突き放さないことには自分の身が持たない。相手としっかりからみあってしまっている。だから「嫌いだ、好きにしろ」といって突き放しているのは、ほんとうは相手が好きという自分のなかの自分なのである。その複雑さがおもしろい。
 「しっぽ」には、手に余る息子が、また登場する。

息子が犬を買ってきた
足の短いチョコマカ動き回るミニチュアダックスフント
生まれたばかりなのにもうしっぽを振っている
犬って狼が先祖なのにどこでどう間違えて
しっぽを振るようになったのでしょう
どこでどう間違えて息子は空っぽ頭なのでしょう

 犬を見ていて、尻尾を振るから(こびる?)犬批判のことばが動く。そして、それが突然、犬を買ってきた息子批判に変わる。この変化、怒りの対象が犬から息子に突然変わってしまうところがおもしろい。
 だが、これは変わったのではないのかもしれない。変わったのではなく、混同した。いや、いっしょになってしまった。融合したのだ。犬と息子は区別がつかない。同じものなのだ。
 しっぽを一生懸命振って、かわいいわねえ。ばかねえ、こんな小さいときからしっぽを振って。--その「気持ち」は区別がつけられない。どっちもほんとうなのだ。そして、その気持ちをほんとうにかえるのが「息子」なのだ。ばかねえ、犬なんか買ってきちゃって。かわいいわねえ、犬に夢中になるこども(息子)は。すなおで、いいわあ。でも、どうやって育てるつもり? いやになるわあ、なんにも考えていない、頭が空っぽなのだから。
 こういう感情のごちゃごちゃを長嶋は整理しようとしない。かわいい、とだけ言うわけではない。ばか、というだけでもない。どちらかに傾いて、一方を排除するわけではない。両方を、そのまま「ほんとう」として受け入れて生きる。

息子は犬を世話するために仕事に行かれなくなった
抱いて寝ている
短足 胴長 大顔 犬によく似ている
きっと前世では親子だったのでしょう
息子は女の人に飼われて
しっぽを振っていればいいものを

 「犬の世話をしなければいけないから仕事にいけない」というのは口実。「そんなこと言って……」と長嶋はぶつぶつ言う。ぶつぶつ言うが、息子を仕事に追い出すわけではない。批判はするが、息子が犬の世話をするように、長嶋は息子の世話をする。きっと前世では親子だったのでしょう。あ、間違えた。「いま」が親子だから、息子の世話をする。同じ「短足 胴長 大顔」が「似ている」。それが、かわいい。憎たらしい。そうであるなら、長嶋と息子もまた「短足 胴長 大顔」が「似ている」に違いなく、あれはまるで自分が子育てして添い寝していたときの姿だろうか、なんて思うのかもしれない。
 でも息子なんだから、はやく他の女の所へいって、女にせわされて、しっぽを振るようになってもらわないと困る。でも、息子が知らない女(?)にしっぽを振っているのは、しゃくかも。憎たらしいかも。
 書いてある以外のことばが、いつも長嶋のことばから聞こえてくる。
 これは長嶋の書いている「意味」を読むというよりも、きっと、私が長嶋の「肉体」を見ているからだ。「声」を聞いているからだ。--あ、私は長嶋にあったことがないし、写真すら見た記憶がないのだが、まるで知っているおばさんのように、その「肉体」ごと感じてしまう。口調を思い出す。
 ていねいな口調で、気をつかうふりをして、「ばかみたいなことして」とあざわらっているような矛盾した言動をそのまま存在させてしまうおばさんの「肉体」。「大丈夫?」と声をかけながら、「ざまあみろ(いい気味)」「これくらいで泣くなんて、ほんとうにばか」「せいせいしたわ」と口元が笑っている。(あ、私のおばさん批評は残酷?)
 で、そんなふうにしながらも……。

わたしにしっぽを振ってくる人はもういない
友だちもいない
誰もいませんからどうぞ家へ遊びにきてください
本当はきてほしくないのに
ついお世辞をいってしまう
わたしもしっぽを振っている

 ちょっとさびしい。「誰もいませんからどうぞ家へ遊びにきてください/本当はきてほしくない」と矛盾するしかないこころ。
 息子を冷淡に批判し、あざわらったように、長嶋は自分自身を対象化し、批判し、笑う。ユーモア。おかしいことろが、ある。そうわかって、それを受け入れる。息子を受け入れるように、自分の奇妙なところ、矛盾したところを受け入れる。
 すべて自分の「肉体」といっしょにあることなのだから、受け入れるしかないのだけれど。

 矛盾にであったとき、どうするか。--と、私は、また「飛躍」する。
 男は矛盾を追及する。私がここで書いているように、こことここは矛盾している、と指定して得意になる。まるで自分に矛盾がないみたいに。そして、一方を修正しろ、矛盾を解消しろ、と迫る。批判する。他人に対しては。
 自分に対しては、どうするか。むりやり「論理」をでっちあげて、これは矛盾ではないといいはるか、あるいは「矛」と「盾」のどちらかを否定する形で、矛盾を解消する。「論理」をととのえる。
 でも、おばさんは、私の知っている「長嶋南子おばさん」は、そういうことをしない。矛盾がどうした、と開き直る。どっちも「肉体」で受け止めてしまえば、そこに長嶋南子という「肉体」があるだけ。どんな気持ちも、どんな論理も、その場その場でうごきまわるだけ。「肉体」がある、「生きている」ということを否定できる「論理」(ことばの運動)なんてないからだ。

ついきのうまで家族をしてました
甘い玉子焼きがありました
ポテトコロッケがありました
鳩時計がありました
夕方になると灯がともり
しっぽを振って帰ってくるものがいました
家族写真が色あせて菓子箱のなかにあふれています
しっぽを振らなくなった犬は 息子は
山に捨てにいかねばなりません
それから川に洗たくにいきます
桃が流れてきても決して拾ってはいけません

 この最後の「飛躍」がおもしろい。「桃太郎」が、ふいに登場してくるところがおもしろい。まあ、そのまえの「うば捨て」に似た「犬捨て(息子捨て?)」があるから、その連想で「桃太郎」が出てきたのだろうけれど……。
 この「ふいの出現」、記憶の奥からぱっと「桃太郎」が出てくること。
 これは、とても重要な問題を持っている。
 「桃太郎」はだれもが知っている。小さいときに、繰り返し聞かされる、あるいは読んでいる。それが「肉体」のなかに、ずーっと残っている。ことばが「肉体」そのものになっている。それが、あるとき、ふいに出てくる。なぜ、このときに「桃太郎」なのか、そんなことはわからないが、何かが「肉体」の奥から、「意識」の運動とは無関係にふっと意識を突き破ってあらわれる。
 私たちは、何か、そういうものをかかえている。そういうものに動かされている。
 で、思うのだが。(これが、第二の「飛躍」だな。)
 長嶋が書いている「しっぽを振る」からはじまることばの動き、それは長嶋が「発明」したものではなく、「桃太郎」のように、「肉体」で語り継がれてきた何かなのだ。「桃太郎」のストーリー全部を正確に暗唱できるひとは少ないだろうけれど、なんとなくストーリーを知っている。その「なんとなく知っている」という感じで、「肉体」がかかえている「人間」の記憶、「母親」の記憶、「女」の記憶--というものが、あるとき、「肉体」の奥からよみがえる。
 長嶋が書いていることは長嶋独自の「世界」である。けれど、その世界は「おとぎ話」のように、誰の「肉体」の奥にも動いている。女だけではなく、男の私の肉体にも似たようなものがある。だから、長嶋のことばに共振してしまう。
 どんな新しいことも、「肉体」がいつか体験したことなのだ。「肉体」の奥から、体験した「過去」だけがあらわれてきては、「肉体」を動かしていく。そうして、私たちは「過去」へ帰る。「人間の原点」へ帰る。未来へ進めば進むほど「人間の原点(いのちの原点)」へ帰る。
 詩を読むとは、そういう練習、「人間の原点へ帰る」練習なのかもしれない。

はじめに闇があった
長嶋南子
思潮社