谷川俊太郎『二〇一四年 夏のポエメール』は『ごめんね』という詩集の他に、「絵日記+封筒」「絵はがき五枚」「旗(絵・和田誠)」「お面」「DVD」などが箱に入ったもの。
詩と詩的な素敵なものを、箱に入れて読者にプレゼントするという長年の夢が実現しました。値段がついているのが、玉にキズですが、買って下さってありがとう! 俊
という「おたより」がついている。「おたより」は紙飛行機にできるように、裏側に折れ線が書いてある。
うわーっ、うれしいな。
でも、困ったなあ。紙飛行機にして折ったら、「おたより」を読むときに紙飛行機を伸ばさないといけない。折ったり伸ばしていたらぼろぼろにならない?
絵はがきも、出してしまったら手元に残らない。絵日記も応募したら(何点か「谷川さんとの宴」で披露されるらしい)手元に残らない。
セットの商品が、だんだん「欠陥商品」になってしまうよ。大事なものなのに、だんだんなくなってしまうよ。
と、書いて気づく。
そうか、詩というのは大事なものをだれかに届けること、プレゼントすることなのだ。大事なことば、大好きなものを、だれかに手渡すということが詩そのものなのだ。手渡したことば(もの)がその人にとどき、その人がまただれかに手渡す。そうしてだんだん広がっていく--そういうことが詩なのだ。書かれたことば、大好きなもの以上に。
さて、絵はがき。だれに出そうか。絵日記に何を書こうか。紙飛行機、どこで飛ばして迷子にしようか。わくわく、どきどきするね。
*
詩集の感想を書いておこう。(奥付には、昔懐かしい「検印紙」がはってある!)好きな詩が多くて困るが、タイトルになっている「ごめんね」。
ごめんねって言ったら
君が小さくうなずいてくれたので
もう一度ごめんねって言った
初めのごめんねは昨日の君に
あとのごめんねは今の君に
昨夜は一晩中夢の中で
僕は悪くないと思っていた
僕には僕の理由があるって
でも今朝目が覚めたら
もう夢は覚えていなかった
夢のフィルターに濾過されて
気持ちのゴミが流されて
純粋なごめんねだけが残っていた
手紙でも電話でもダメだと思って 朝
君の部屋まで四キロ走ってノックした
いいなあ、この感じ。こんなふうにしたかったけれど、できなかったなあ。あのとき、こんなふうにすればよかったのにと思い出しながら、いいなあ、好きだなあ、この詩。そう思う。
でも、私は詩を読むだけではなく、自分でも詩を書いているし、詩の感想も書いているので「いいなあ、いいなあ」と言ったあと、どこがよかったのだろうと考えたりもする。谷川さん、この詩は、谷川さんのいまを書いているわけじやないでしょ、と意地悪も言いたくなってくる。
最初に読んだとき、ぱっと思い浮かんだのは思春期の少年のこころ。中学生のころを思い出した。好きな女子がいて、なにかの行き違いでけんかする。ひどいことも言ってしまう。「ごめんね」と言いたいけれど、言えずに我をはる。その少年が次の日、「ごめんね」と言いたくなって君を尋ねる。
でも、「君の部屋」? 中学生の女子も「部屋」を持っているかもしれないけれど、それは「部屋」というより、家族といっしょに住んでいる家だね。中学生なら「君の家」を尋ねる。「部屋」じゃなくてね。
そうだとしたら、私が「少年」と思ったのはだれ? 青年? 相手はアパートかどこかに住む若い女性? そうかもしれないなあ。
「走って」というのは、どういうことかな?
私は自分の「体験(記憶)」から言うと、中学生ならば「走って」は「自転車で走って」。自分の足でそのまま走って、とはならないなあ。
もし青年なら? 走っては車かもしれない。手も車で走ってでは、四キロは微妙な距離だなあ。少年が自転車で走るような「緊張感」、どきどき感がない。
そういうことを考えると、この詩は、何か変。
夢のフィルターに濾過されて
気持ちのゴミが流されて
純粋なごめんねだけが残っていた
わかるけれど、こんな「比喩」をわざわざ考えたりしないね。真剣に「ごめんね」と言いたいときは。早く会いたい、早く「ごめんね」と言いたい気持ちだけがある。--この三行は、あのときのことを思い出して、ことばをととのえている。いまではなく「過去」を書いている。
一連目の、
初めのごめんねは昨日の君に
あとのごめんねは今の君に
こういう分析(?)も、実際に「ごめんね」と言っているときは思いつかない。あとで思い出していることである。ことばをととのえている。ことばは、そのときの「こころ」のまま動いているのではなく、ととのえられたことばが「こころ」を動かしている。
2連目はまるごと、ととのえられたことばであって、こころは、ことばを置き去りにして走り出している。こころが走っていくので、肉体がそれを追いかけていく--そういう感じなのに、書かれていることばは、その順序が逆になっている。
でも、これが詩なのだ。
こころが動いて、何かして、それをことばで書きあらわしたとき、そのことばは詩なのだけれど、ことばはいつでも遅れてやってくる。何かしているときは肉体の方が夢中になって動いていて、ことばはまだ生まれていない。あとになって、まだ肉体が覚えていることをことばでととのえなおして、あのときのことを思い出す。思い出すためには、ことばはととのえなければならないのだ。人間の「頭」はとっても悪くて、ごちゃごちゃしたままでは何かを思い出せない。ととのえられたものでないと、ついていけない。こころは、何が起きているかわからなくても肉体を動かしてしまうけれどね。
ととのえられたことば、ことばをととのえる工夫が詩である。
「ポエメールの箱」に戻って言うと……。
だれかに何かを届けるときは、形をととのえる。手紙を書くときは、文字をととのえる。形がととのっていようがいまいが、こころはこころなのだけれど、そしてととのえる暇のないときの方が生のこころなのかもしれないけれど、それをととのえる。ととのえるという行為のなかに、相手に対する「思いやり」のようなものがにじむ。
私たちは、そういうものとも触れ合っている。ととのえることのなかに、何か、その人独自の人間性があらわれていて、それに触れる。ただ「裸のこころ」にだけ触れるのではなく、配慮というものにも触れる。成長に触れるのかもしれない。生なむき出しのこころから、それをととのえるまでに必要だった時間--その間の成長というものに触れるのかもしれない。
不思議なことに、この配慮、工夫、ことばのととのえ方があってはじめて、私は、この詩の主人公を「中学生の少年」と思う。「初めのごめんねは昨日の君に/あとのごめんねは今の君に」という中学生の私には思いもつかない時間の感覚をとおって、あのときは「初め」と「あと」という区別もできなかったから「ごめんね」が言えなかったのかもしれないと思う。「初め」と「あと」が書かれているから、それよりも前の「ごめんね」ということばが生まれてくる前のところまで帰ることができる。
谷川の詩はいつでもそうだが、そのことばが「生まれる前」まで私を運んで行ってくれる。そして、そこから私は「生まれ変わる」。
新しく生まれる。
私はこんな純粋な、そしてこんな正直な少年なんかではなかった。
けれど、谷川の詩を読むと、私は純粋で正直な中学生の少年として、この詩の中で動くことができる。自分が経験してきたこと(経験したかったこと)なのに、いま、ここで経験しているみたいにこころがさわぐ。
そこには青年時代のこともまぎれこむ。詩の中で、1連目、2連目、3連目と進むに従って、自分自身が成長している。(あ、「成長」ということば、「ととのえる」ということばについて考えたときもでてきたなあ。何かが、つながっている。)
「ごめんね」と言いたかったあらゆることがまぎれこむ。「君」とけんかしたときのことだけではなく、ほかの人とけんかしたときのこともまぎれこむ。「ごめんね」と言えばよかったのに、言えなかったすべてのことが紛れ込む。
つぎに「ごめんね」と言いたくなったら、こうしようと思う。
「時間」を忘れてしまう。
「時間」と「当時」が違う--そう文句を書きながら、その「違い」があるからこそ「当時」へ返っていくことができると気づく。
詩は不思議だ。
谷川の詩は、どこかに矛盾のようなもの(いま指摘した「中学生が思うはずのないこと」のようなもの)が書かれているけれど、それが「いま」の私を濾過する。余分なゴミを流し去り、気持ちの源流へと誘う。
谷川の詩のなかで、私は新しく生まれ、新しく成長する。
*
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