「シメオン」については中井久夫の注釈がある。シメオンはアンチオキア東方の荒地の柱上苦行者。だが、この詩はシメオンのことを書いているというよりも、別のことを書いている。
そう、あいつの新作の詩は知ってる。
ベイルート中騒いでるな。
そうのち読むよ、じっくりと。
今日は駄目だ。気が動転してるから。
書き出しの「あいつ」はだれかはわからない。詩人であることはわかる。その詩が評判になっている。もしかするとシメオンについて書いているのかもしれない。けれどカヴァフィスはその詩を読む気になれない。なぜか。
メヴィスよ、わしはなあ、
(偶然だったよ)シメオンの円柱の下にいたんだぜ、昨日。
そして、感動したのだ。「心は乱れて何も考えられなかった」というくらいに。つづけて書いている。
笑うなよ。考えてもみろ。三十五年ぞ。
三十五年間、夜も昼も、夏も冬もだ。
円柱の上に座って苦行だぜ。
きみも私も生まれておらん(私は二十九歳。
きみは私より若いよね)。
生まれる前からだぜ、想像できるか。
カヴァフィスは、彼が「生まれる前から」存在し、いまもなお、その形を守っているものを大切にしている。それは何か。ギリシャ語である、と私は思う。苦行するシメオンよりも、その苦行(?)は長い。シメオンに触れて、その苦行(困難)を思い起こしたということだろう。
これは別なことばで言いなおせば、カヴァフィスが詩を評価するときは、そのギリシャ語の響きによってのみである、ということになる。
ギリシャ語はむろんリバニウスよりもうまいさ。
二連目に出てくる、この「ギリシャ語」ということばがカヴァフィスの立場を語っている。シメオンにならってギリシャ語の上で苦行している、と主張している。
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